ジャッジ方法の違いは競技性と関係する
連載、3回目。ようやく競技の話が出てくる。数回後に明確に競技とは何かは定義はするものの、だからと言ってここまでが競技、ここから先は競技ではないと、厳密に区別できるのかといえば、決してそうではない。だから、自分は競技「性」と度合いをつけて使うことが多い。この場合の「性」は「度」と言い換えてもいいかもしれない。で、今回から、ジャッジと競技、あるいは競技性の話となってくる。この辺りを事前知識として、読んで頂ければと思う。
「ジャッジを考える2」 2006.08.10
さて、ジャッジの話に戻ります。
亀田興毅の世界戦のジャッジ問題、その根本は、一般ファンから見た「勝者/敗者」の判定と、実際に出た結果が違っていたことだと思います。だからこそ、ネット上では集団ヒステリーとしか表現しようのない状態になった。けれど、ボクシングの競技としてみれば、それほどおかしな判定ではない(と自分を始めとして主張する人間は多いです)。彼らのキャラクターの問題はあるにせよ、ボクシングという競技のシステムに詳しくない、まさに、亀田兄弟だからこそ番組を見たようなボクシングに詳しくない人々だからこそ、あの判定に違和感を覚えたと言えます。
観客の目から見て、マニアでもない一般人の目から見て、勝ったと思える選手が勝つシステム。そういう判定基準。そうでなければおかしい。これが今回の亀田・協栄・ボクシングを批評する側で、一番正論に見える部分だと思います。
何故、こういう齟齬が起きるのか。そのあたりを考えていこうと思います。
前回で、判定の形式・形態を、下記のように分類しました。
1)判定なし(ドローとなる)
2)全体での判定
3)ラウンド毎のポイント制
4)ある有効な状態にポイントが与えられるポイント制
それでは、自分にとって、身近である、スマックガールの話から書いてみましょうか。
現在、スマックガールでは、上記分類のうち、2)となります。ポイント制を採用せず、かつ、マストシステムでジャッジします。この場合のマストシステムというのは、今回、亀田ジャッジで問題になったラウンドマストとは違うことは、前回説明しました。
もう1度簡単に繰り返しておけば、全体を通して、えいやっで勝ち負けを決めるわけです(勿論、基準は色々あります)。その時に、ドローを設けず、どちらか勝者を決めることを、マストと言ってます。
それでは、スマックは、何故、こういうシステムを採用しているか。この理由はもう簡単です。採用している側が書くのだから、間違いないです。
それは、一般ファンからの見た目と、出る結果が、1番一致し易いシステムだからです。つまり、亀田問題みたいなことが1番起き難いシステムなんですね(ドローを設けるかどうかの話は、またちょっと別の問題なんですが)。
が、このシステム、現実的な話として、選手側・やる側からは、とにかく評判が悪いわけです。
これをある言葉に、言い換えてみます。上記1)〜4)の分類は、実は1)から4)に向けて、競技性が高くなる判定システムであると言うことが出来るのです。
そして、競技性が低いと、多くの場合、競技者、つまり「やる側」からは評判が悪いシステムとなります。つまり、スマックのこれ、競技性と興行性の矛盾の中で、明確に「競技ではありません」と言っているスマックだからこそ出来るシステムなんです(*1)。
PRIDEだって、採用しているシステムじゃないか。じゃあ、PRIDEは、競技性は低いのかと言われれば、実はそうなんです、低いんです。
モンスター路線(と強引に括ります)が継続しているK−1(そしてHERO’S)との対抗上、あえて、競技性が高いというイメージが必要なだけで、その内容、特にジャッジのシステムについては、実は競技性という観点から見ると、かなり低いんです。
だから、PRIDEサイド(広い意味でということです、マスメディアも含めて)から出る表現を見ると、実は「競技」という言葉は、ほとんど見かけません。それを言ってしまうと、明確に嘘になってしまうから。「60億分の一を決める場」「真の強い男を決める場」という表現はあっても。逆に「PRIDEは競技です」という表現がどこかであるなら、それは嘘ですから、信じないように。単なる宣伝的な煽りでしかありませんから。
誤解なきよう書いておきますと、スマックガールも同じです。つまり、競技性が低い、だから悪いと言っているわけではないのです。
それでは、競技性とは、そして競技とは、いったい何でしょうか。
続きます
*1:とはいえ、比較的競技指向の強い、ケージフォースもヴァルキリーもこの判定方法を取っている。これについて若干補足すれば、判定の判断基準が、スマックガールに比較すると、詳細に定義がされ、ジャッジにも徹底されている。それでも、こと「競技化」という観点のみからみれば、やはりポイント化した方が競技性が高いというべきであると個人的には考える。が、競技性が高ければそれでいいのかという話であるのは、本文でも触れている通り。