電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

競技性と興行性は多くの場合矛盾する2

今回の話は、ちょっと判定が難しい試合があると、掲示板やら何やら、ネットのそこここで、詳しい人が詳しくない人に、延々薀蓄をたれ始めることの多い話題。自分も延々やってきたし、他者同士のやり取りも、うんざりするほど見た。わかってしまえば当たり前の話とはいえ、ここが理解できない人が、やはり数多く存在するということでもある。

「ジャッジを考える6」 2006.08.16


ジャッジの形式・形態は、以下の4種類に分類することが出来ると書きました。


1)判定なし(ドローとなる)
2)全体での判定
3)ラウンド毎のポイント制
4)ある有効な状態にポイントが与えられるポイント制


今回は、1)から4)が競技化の流れだという話とは、ちょっとズレるのですが、その先の話に繋げる為に、1回使ってやっておこうかなという話です。


亀田興毅の世界戦のジャッジで話題になった(した)、ボクシングの「ラウンド毎にマストで配点を振り分けることが推奨される運用」という近年の傾向で発生する問題(*1)と、同根の問題が、そうでない運営を行う、総合やキックでの3)の方法でも、既に発生していることに触れておきます。


ボクシングの10ポイントマストシステムにおける「ラウンド毎にマストで配点を振り分けることが推奨される運用」については、2回前の下記を参考にしてください。


「10ポイントマストシステムとは何か?」


では、総合で多い形式である、5分2Rマッチの場合を考えてみましょうか。


1R、赤A選手が、圧倒的に攻めた。それはもうハッキリと10−9。で、2R、僅差ではあるが、青B選手が、反撃した。1Rの赤A選手の攻勢ほどではないけれど。これはやはり、10−10ではなく、9−10につけられるだろうなと。


このケース、19−19でドローになるわけですね。全体でのマストシステム、つまり2)の形式でジャッジしたら、赤A選手の勝ちと判定できるにも関わらず。


曖昧さを排除するということ、つまり、ジャッジの基準を細分化し、数量換算を行い、どんな場合でも、同様の判定を出せるように採点基準を明確にしていくこと、それは競技にとって、最も重要な公平さの保障になります。が、その分、わかり難くなっていくのです(*2)。そして、それは興行的側面から見た場合、決して望ましいことではない。


2)で挙げた、総合のプロモーションは、すべてプロ興行を前提とする組織です。なので、競技性を軽視してでも、わかりやすさを優先することで、興行性を確保することを目指しているのです。が、その為に、曖昧さ・不透明さを残すこととなり、はっきり言ってしまえば、不正の発生の可能性は上がります。判定の監査自体が難しくなりますので。


あちらを立てれば、こちらが立たず状態。


これは、どちらかが正しいという問題ではありません。まさに、興行性と競技性はバランス問題であり、そのバランスを、どう設定するのが、競技を統括する人間、もしくは組織の仕事ということになります。


国内において、総合格闘技界には、まだ統一コミッションも存在しません。残念なことに、という表現が適当かどうかは微妙ですが、総合格闘技は、まだそういう状態であるわけです。なので「競技を統括する人間、もしくは組織」というのは、修斗を除けば、プロモーターであるわけです。そういう人間、もしくは組織が、あーでもないこーでもないと考えながら、バランスを考えているわけですね。


さて、ここまでで、4種類に分類したジャッジの形式・形態のうち、1)〜3)までの流れを説明しました。次回は、ここから、数量化・抽象化という話に移ります。上記で書いたことは、そこへのフリです。「4)が、競技化の最終形態である」ということについてです(*3)。

*1:直感的な結果の推定と、実際の判定結果が、食い違う場合が発生しやすいという問題を始め、ジャッジ間の誤差が発生しやすいことなどが挙げられる。

*2:この例で言えば「何でドローなの?」という疑問、つまり、観客が試合全体を通して得た直感的な結果の推定と、ドローという実際の結果の齟齬のことを「わかり難い」と表現している。

*3:とは言え、この連載は「次回やる」と書いてやらないことが特徴だ。次回は違う話題になる。勿論、それを振らないとこの「数量化・抽象化」というテーマに至らないということなんだが。