電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

311以降、希望に照れる必要はなくなった

どうもね、自分のように斜に構えて、シニカルな事ばかり言っていると、希望だとか夢だとか、そういう言葉は使いたくない。生温いこと言ってるんじゃねえよってな感じで。だから、滅多な事じゃ使わない。

村上龍「危機的状況の中の希望」より。

(前略)
私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。


今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。


だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。

先鋭的な意識を持つ書き手にとって、これは恐らく確信に満ちた事で、似たようなニュアンスの発言をしている信ずべき識者は、ネット上だけで複数確認している。自分も基本的には同じようには思う。それでも、依然として、自分は天邪鬼なので、安易に希望だとか夢だとか、そういう言葉は使わないとは思うのだけど。

それでも、間違いなく思うことは、我々(という言葉をあえて使うけれど)は、希望という言葉に、もう照れる必要はない。