電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

続・気狂いに反原発

はてブのコメントって、コメント頂いても未だどうやって答えていいのか、よくわからないんだよなあ。昨日のエントリー「気狂いに反原発」に、こういうブックマークコメントを頂いたので、エントリーにして回答する。

何がそんなに嫌なんだろう。「表現の自由」のような精神のレベル以前、もっと原始的な生命を脅かすレベルの問題なのに、精神の問題と思えるのは何故だろう

簡単な話で、「原始的な生命を脅かすレベルの問題」より、「ファシズムの匂い」に嫌悪感を覚えるからで、更に極論を書けば、原発に生命を脅かされないファッショな世界と、原発があって生命を脅かされるけれどファッショでない世界の、ふたつがあるとすれば、自分は間違いなく後者に生きたいと思うからだ。

あるいは、こういう回答の仕方も可能だ。人間は原発に限らず、あらゆるモノから常にから生命を脅かされながら生きているわけで、例えば、推進派がよく言う「原発はデスレートが低い、だから安全」という話は、恐らくデスレートに関してのみを考慮すれば、チェルノブイリの被害をかなり高めに見積もったとしても、世界中の稼動している原発の周辺ではたった今も癌でボコボコ人が死んでいる的なトンデモ論(はいくらでも見つける事が出来る)を採用しない限り、統計的事実といってよく、かと言って自分は、放射能の脅威というのは、デスレートの問題ではなく、放射能という人間がまだ科学的に制御出来ていないモノを、あたかも制御出来ているかのように偽って何事かを行おうとする事で発生する、精神的な重圧感・不安感こそが問題であると考えている。

自分にとっては、物理的な生命への脅威より、精神的な重圧感・不安感こそが問題なわけだ。つまり、反原発の運動がファシズムの色彩を帯びる事は、原発自体がもつ精神的な圧力と、まったく等価な精神的な問題なんである。