電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

残念ながら根本的に誤読です

「すべての文章には誤読される自由があるの続き。

コメント欄を経て、野嵜さんよりさらに反論があった。

「やつぱり私の誤讀ではないと思ふ」
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/33764544.html

いやまったく見事に誤読していると思います。

そもそも、自分は「議論」という概念の「属性」とか「種類」とかについて、あれこれ言っているのではないと、説明しているではないか。

(前略)
大昔(って言っても10年前)、掲示板全盛だった頃は、どこに行っても、議論が出来た。あれだけいた議論したがりな連中は、一体どこにいってしまったのかと思うぐらいに、最近は議論したがる連中が少ないし、議論がなされている場も少ない。ウェブは2.0に進化して、益々双方向になった筈なのに、昔からネットにいた自分のような人間には、その機会がどんどん失われ、一方的に文句垂れ流しているだけみたいになってきた。ウェブは2.0になったんじゃなく、0.5に戻ったような感じすらある。

逆にいえば、議論したがる人間なんて、ハナから大していなかったんじゃないかということも言えて。昔、議論に見えたものは、実は議論でもなんでもなく、それで得られるカタルシスは、言いっ放し型の一方通行でも、充分得られるということなのかも。自分は昔から、議論は弱いと言っていたが、それは簡単に譲るからだ。議論の面白さの本質は、異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚されることであり、相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。だからこそ、勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論は、やってて面白くないし、やりたいとも思わない。

ところが、やっぱり相手を罵倒したい、一方的に叩いて、いい気分になりたいという人は多く、そういう人にしてみれば、議論という形態を使わずとも、ネットでは好きに吠えられるようになった。例えば、よくみかけるのが、叩かれ始めると、ブログを閉める人。人を叩くのは大好きだが、人に叩かれるのはイヤなんだな。まあ、気持ちは分らなくもないが、だったら最初から言わなきゃいいのに。お前にゃ2ちゃんがお似合いだ。
(後略)

この最初の自分のエントリーで、議論という概念の内部に踏み込んだ部分は、

自分は昔から、議論は弱いと言っていたが、それは簡単に譲るからだ。議論の面白さの本質は、異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚されることであり、相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。だからこそ、勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論は、やってて面白くないし、やりたいとも思わない。

という部分のみなのだ。この部分のみが、議論という概念の内部について、唯一踏み込んでいる部分で、これが野嵜さんのAとかBとかCとか、そういう問題であって、それ以外の部分では、そんなことには何も踏み込んでいないし、触れてもいない。

何故、自分がこの例をあげたのかといえば、それは「議論的なもの」の代表例として、自分が面白いと思う「異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚」という例を挙げ、それに対置して、「一方的な言いっ放し」に近いメンタリティーを持つ「勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論は、やってて面白くない」という、自分が面白いとは思えない議論の一例を挙げただけだ。

こちらも図式化する。

野嵜さんが主張していることが、上段のひとつの円。自分が書いたことは、下のふたつの円。これでわかって頂けるのではないか。イが「議論的なもの」、ロが「一方的な言いっ放し」。もうここで、野嵜さんは、根本的な勘違い・誤読をしている。自分のいう「一方的な言いっ放し」というのは、喧嘩でも論争でもなく、文字面通りの「一方的な言いっ放し」であり、「議論」の一種類にも属性にも分類できない、「議論」とはまったく異なる概念。例えば、現在自分と野嵜さんは、文章の応酬をしているので、これは議論であるのかもしれないし、野嵜さん言うところのAなのかBなのかCなのか、とにかく「議論的なこと」をしているわけだが、自分の最初のエントリーで取り上げた「一方的な言いっ放し」とは、こういう言葉の応酬もなされずに一方的に終了されるものであり、だからこそ、その例として叩かれたらブログを閉める例などあげて、説明しているわけだ。

「議論的なもの」の内部がどうであろうと、どうでもいいのである(少なくとも、元のエントリーでは、と繰返し書いている)。自分は、そういう「議論的なもの」をしていた奴の多くは、実は、議論なんかじゃなく「一方的な言いっ放し」がしたかっただけなんじゃないか、と言っているだけだ。概念ではなく、メンタリティーの問題なのだ。そして、ネットの仕組み自体が、昨今では、そういう「言いっ放し」を支援する方向に向いている、従って「議論的なもの」は益々減っていると主張している。

恐らく、と勝手に推量するなら、普通の人間は、こんなアホ臭い誤読などしない。たまたま自分が書いた議論の詳細に対する言及が、野嵜さんの興味と重なっていた為、勘違いして、根本的な誤読をするハメになっている。もう一度、自分が誤読とみなした箇所を引く。

(前略)
この人も、「議論」と「喧嘩」とを全然區別してゐない。罵倒とか相手を叩くとか、さう云ふ現象を、議論の一屬性と見ず、議論の本質と勘違ひして、面白をかしく語つてゐる。

「罵倒とか相手を叩くとか」が議論の一属性であるかなど、どうでもいいし、「議論の本質と勘違ひ」などしていない。そんなこと、まるで書いてないんだから、誤読に決まっているではないか。

「罵倒とか相手を叩くとか」は、「議論的なもの」と「一方的な言いっ放し」の双方に存在するものであって、だからこそ、昔「議論的なもの」をしていた連中は、実は「罵倒とか相手を叩くとか」したいだけなので、今は「一方的な言いっ放し」でいいんだろうと書いているのだ。

加えて、今回も野嵜さんの勘違いは激しくなっている。

價値相對主義の人から「誤讀だ」と云ふ非難が發せられるのを最近立續けに聞いたわけだけれども――公共的な・公益性のある「正しさ」を主張する際の「勝ち負け」は「認められない」と言ふのに、個人的な「正しく解釋する事」を主張する際の「勝ち負け」は「認める」と言ふのが解らない。

自分は価値相対主義といえば、その傾向は間違いなくあるが、『公共的な・公益性のある「正しさ」を主張する際の「勝ち負け」は「認められない」』などとは、書いてないし、『個人的な「正しく解釋する事」を主張する際の「勝ち負け」は「認める」』とも書いてない。勝手にそうなんだろうと、野嵜さんが決め付けているだけなのだ。

いや、しかし、メモ8氏は、今、「誤読は自由である」と書いてをられるんだが、これが何を意味するんだか、解らない。「正しく解釋して欲しい」けれども「誤讀は自由である」――メモ8氏は一體何を主張してゐるんだらう。

それが読めてないから、益々誤読が酷くなるんだよ。自分は、書いてるじゃん、最初の文章のシメに。「メモ8さんの孤独と絶望は深まる一方だ」と。人は「正しさ」や「勝ち負け」の為だけに言葉を吐くわけじゃない。情緒や感動の表出の為に、あるいは、嘆息の呟きの為に、言葉を紡ぐ。文学とは、そういうものだ。

繰り返すが、誤読するのは自由。お好きにどうぞ。