電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

黒澤明全30作・極私的見所解説その7

六週目「黒澤明全30作・極私的見所解説その6」はこちら

いよいよ最終週。テーマは「そして世界へ」、分からなくもないんだが、ちょっとおかしなテーマ設定だと思うわ。特に「そして」のところ。日本語の使い方というか、時制が間違っているというか。

「羅生門」

黒澤のいわゆる文芸作では数少ない傑作。これで世界に出た。文芸作なんだが、大作感はなく(実際短い)、ぎゅっとした緊張感のまま、最後まで一気に駆け抜ける感じがいい。それをラストでふうっと抜いてくれる演出も見事。ただこの映画、それまでの黒澤作品からすると、違和感があるのも確か。何というか海外からの目を意識した時代物という感じがしないでもない(制作時に既にどれだけそれを意識していたのかは知らないが)。いわゆる活劇ではないので、それまでと同じ目で見てしまうとどうなのか。事実、カンヌを受賞するまでは、永田ラッパ(知らない若い子は各自調査)は鳴らなかったらしい(ウィキペ知識)。黒澤はほとんど東宝なんだがこれは大映なんだよね。

「デルス・ウザーラ」

これもいわゆる文芸大作であるわけだが、ロシアの自然の逞しさに圧倒されて、少なくともおれは冗長さは感じない。一連の洋モノ翻案みたいなリキミを感じず、好き勝手にやってる感じがする。だから普通に凄くいい映画だと思うんだが、かと言って、ちょっとヨソ行き過ぎて、魂にガツンと来るかというと、凄くいい映画ですよねえという以外に、あまりに強調したいものがない事も確か。あんまり黒澤らしくない映画であるとも言える。

「影武者」

あのお、どのシーンが「乱」でどのシーンがこれかあんまり覚えてないんですけどお。という位、何故これと「乱」を続けて撮ったのかよく分からない一本。しかも「乱」もこれも海外で妙に評価が高いんだよねえ。勿論、おれは黒澤の数少ない駄作だと思っている。「乱」でもっと凄くなる遠間からのカット連発、この「影武者」では役者の顔に光が当たってなかったりして、びっくりする。顔に光を当てるという作業は映画撮影において基本なので、これわざとやっているのだ。役者の顔を映さないで、どういう効果があるのか、さっぱり理解出来ない。黒澤アタマおかしいんじゃないかという一本。

「夢」

オムニバス集。ラストの話が抜けて美しいが、いくら何でもメチャクチャだろという話も。特に酷いのは原発が爆発する「赤富士」とその続編にも見える「鬼哭」で、この2本、震災以降、黒澤の先見性などと指摘されることがあるようだが、これ1990年の作で「危険な話」の3年後だぜ。先見性というより本質的な黒澤の軽さ(いい意味でも悪い意味でも)を感じずにはいられない。とはいえスピルバーグやコッポラが協力しててくれたり、スコセッシが間抜けな役で出てたり、黒澤はハリウッドの一流に愛され続けたことがよく分かる変な映画。おれは単なるメチャクチャだと思うけどね。

 * * *

これで、延々続けてきた黒澤全作コメントも、ようやく全部片付いたわけだが、どうも「影武者」「夢」で終わるのは寂しいので、極私的な蛇足を少々。まずはベストフェイバリットを3本。「わが青春に悔なし」「生きものの記録」「どですかでん」(制作年順)。ただ、この3本を選ぶセンス、選んだ自分でもどうも嫌味だなと思ってしまう。黒澤は活劇、エンターテインメントだと強調しておいて、それはないだろうというか、映研の学生が若気の至りで選んだみたいな3本だ。

一方、今回のWOWOWの特集、一週目の「不朽の傑作選」5本の選択は手堅い。ここから「用心棒」(があまり好きでないのは書いた)と「天国と地獄」(に冗長さを感じるのも書いた)を除いた3本、「七人の侍」「椿三十郎」「生きる」の3本を、「活劇の黒澤の、黒澤らしいベスト3」と、定義自体を強引にでっち上げて、ダラダラと続けたこの項の締めとする。