電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

貸したままの岩館真理子

クリスマスなんだから、クリスマスらしい話を。

最近はいわゆる少女マンガを読むことは、まずないのだが、基礎教養として若い頃はそれなりに読んだ。そう、基礎教養だったんだな。恐らく、自分と自分より数年上くらいの世代が、マンガやポップミュージックのようなサブカルチャーメインカルチャー以上に価値を持つ教養として捉えて、勉強としてまさに勉強し始めた世代であって、その結果、少女マンガもある程度は読んでないと何も言えないと考えることが、いわゆるマニアのマニア自慢の範囲を超えたところで常識として成立していた。

その当時、萩尾望都竹宮恵子大島弓子は、既に大家という感覚で、まさに代表作を教養としてチェックという感じであって、その後は新しい作家を探す作業に入る。そうやって、岩館真理子やさらに後ろの世代の紡木たくを読んだ。今は情報も多く、ネットやマンガ喫茶でちょい読みしてお試しも可能な便利な時代になったが、その頃は、知人から借りるか自分で買うかしかなかったわけだ。借りるマンガも多いが貸すマンガも多かった。

もう随分前(10年以上というレベル)になるが、岩館真理子の「1月にはChristmas」を久々に読み返したくなって(内容ほとんど覚えてない)、本棚を探してみたがなかった。やはり誰かに貸したまんまなんだろうと思った。ところが、ごく最近、このマンガを誰に貸したか思い出す機会があった。相手は当然女の子である。

貸したままの岩館真理子

1月にはクリスマス。

甘酸っぱいよな。映画が公開された「ノルウェイの森」(クリスマスカラーの装丁だ)的なドラマだったら、失った彼女を思い慟哭しながら、シャンシャンシャンと鈴の音が入って、荘厳なクリスマスソングが流れ始める感じで。

勿論、そうやって意識的に回想するから、自分のチンケな人生すらある種ヒロイックに思い出せるのであって、現実はそんな美しくはない。現実の世界では、人は、岩館真理子村上春樹の登場人物のように気の効いた科白ばかりは話せない。そうして、五十近くになって、ゴミ屋敷と化した自宅の一室で、世界中の誰にだって、クリスマスはやってくるけど、おれに来る予定のクリスマスだけは死にましたとか書いているんである。それが現実なんである。

それでも、自分以外の人に向けてこう言うことは出来る。

皆様、メリークリスマス。よいクリスマスを。心込めてないけどね。