電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

あまちゃんに関して極私的なマトメ

素晴らしい最終週だった。鈴鹿ひろ美のライブシーンは圧巻だったし(TVドラマでこんなに号泣したのは初めて)、はたの駅のアキ・ユイが身を乗り出すようにまだ開通していない東京に向かう線路を覗き込むところから(ここのタメが効いてて凄くいいんだ)、光に向かって走り出すラストラン、もう文句のつけようがなく。

内容について諸々テクニカルな分析をするのは楽しい。が、それ以上に自分に戸惑ってしまうのは、これほどTVドラマに日々の生活が左右されてしまうことが、五十年の人生史上初めてであったこと。ああ、東京に行っちゃうのか、なんかヤだなと思いながら始まった東京編が、あれれ、びっくり加速度つけて面白いじゃないかというあたりから、毎日「あまちゃん」を見ることを中心に、生活を組み立てるという日々になってしまっていて。

人生なんて、いつもさよならだらけなんだから、喪失感など当たり前であって、むしろああこれでやっと普通に生活に戻れるというさっぱり感こそあって、何より社会問題から目を逸らさせる為の権力の陰謀なんじゃないかとすら思うのだ。

何故このドラマが、それほど自分を引き付けたのか、色々と分析は出来るものの、まあその辺はどうでもいいや。

前回クドカン長ければ長いほどいいんじゃないかと思ったんだが、致命的にこの人、演出(映画でいえば監督)は、あまり向いてなんじゃないかというのが、現時点の私的結論。細かいこと書きたがるわけには演出は雑で。例えば「中学生丸山」でエンケンが最初に爆発するシーンがある。ここが明らかに数カット足りないんだよね。何でこれで最後が拍手喝采になってしまうのか、頭の中で補わないと足りない。恐らく、それはポカーンと眺める聴衆とか、そういう数カットであると思うのだけど。古田新太が「面白くないホンを面白くやるのは簡単だけど、面白いホンを面白くやるのは難しい」的なことを言っていて、つまりクドカン、ホンの面白さに演出力がついていってないのではないのかと。

ステラのメモリアルブックやオフィシャルやら何やらを読み漁る限り、やはりのこのドラマ、演出班を中心にスタッフの仕事が素晴らしいのよね。穴というか隙間のあるホン(結構そういうとこある)の、その隙間を埋めていく作業が素晴らしい。勿論、能年・橋本コンビの魅力に加えて、キャストが全員見事な仕事してるというのも大前提。

ドラマらしい総合芸術というか、恐らくNHKでしか有り得ない緻密で高度な集団作業の結果が、すべてがいい方向にピタっとハマった成果というか。

ツイッターで「おれは、あまちゃんにはハマってないので」というフレーズを色々変形しながら繰り返しネタにして、どう見たってハマってるとしか思えない細かい分析などを散々呟いてきたわけだが、自分の人生において、「あまちゃん」こそ、多分一番深くハマってしまったドラマであることを、ここで素直に認めて、さーて、ブルーレイ・ボックスの続きでも観ようかな。