電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

白鳥のウタなんか聞こえない

白鳥の歌」というのは、白鳥が死ぬ間際に、歌を歌うという話があって、そこから色々な人が色々な解釈で、この「スワンソング」を扱うわけだが、まあ要は「死」とか「最後」に密接した話になる。薫くんシリーズの第3作(作品内時間では2作目)となったこの作品は、簡単に要約してしまえば、主人公の彼女が、渋いおっちゃん(というかお爺ちゃん)の死に直面し、動揺してしまうという話で、元々甘ったるいこのシリーズでも、いっそう甘ったるい為、物語としては感動的ではあるけれど、評価は分かれるところ。

さて、自分のような歳になると「死」は憧憬を持って語る対象ではない。いや、そもそも死を憧憬を持って語って様になるのは、ある種ある傾向の若者だけであり、だからこそ、この小説では「聞こえない」と宣言するわけだ。逆に、自分の歳になれば、人はどう自分の人生を完結させていくかを考えていくべきであり、既に、どう生きるかは、どう死ぬかと、あまりに密接になり過ぎていて、死のみを単独させては考えられないとも言える。

グレイシー一族が「グレイシーの為なら死ねる」と言った時、それが「おおーっ」と思われたのは、まさに自分自身以外の何らかの価値に、殉じるという生き方が、今時においては珍しく、かつ美しい生き方であると認識されていることに他ならない。勿論、それは下から目線で見れば、極端な自己犠牲やら、例えば権力による強制を伴った生き方という、それはちょっとヤだよねという問題と、常に同時に語らなくてはならない問題ではあるけれど。

それでも、自分が心血を注ぐ何物かとか、憧れた先達とか、滅び行く運命とかに殉じる意志というのは、理屈として、美学としては、よくわかりやすい。乃木大将が明治という時代に殉じて、それにショックを受けた漱石が「こころ」を書いたくらいであって(いい加減な歴史解釈)、昨日から書いてきている「そっち側」の人間にとっては、普通の美学というか、納得せずとも、うん知っているよねという話なのだが、現在においては、こういう価値観は、まるで通じないことが多い。

「殉じる」という精神のありよう自体が、何それ状態なのであって、たまにそういうあり様が見出せると、それは往々にして自己否定的(を通り越して、自己殺傷的というか)な事象に映るということもあり、まるでなかったこと、もしくは、弱い心のなせる些細な事象として、片付けられることが多い。上記のグレイシーのようなあり様は、極めて珍しい例であって、自分が勤める会社の為に死ねるなんて言い出したら、無駄死だから、止めた方がいいよってな具合であり。

格闘家という存在は、戦士・兵士とのアナロジーで語りやすいこともあり、海外のファイターが、「殉じる精神」を根本とするサムライの心を言い出す場合は多いが、そもそもが、武士道などというものは、武士階級の道徳訓であり、要は「何でこんなバカ殿の為に、おれ、死ぬ覚悟決めなくちゃならんの?」という疑問を、美学の粋まで高めたのが武士道であるわけで、そこのところをすっ飛ばして、サムライなんちゃら言われると、てんで笑っちゃうという感じであり、現代においては、大体の場合、バカ殿の代わりに、家族であったり仲間であったりファンを持ってきて、ファイターは武士道化していくというか、似非サムライ化していくわけだが、うーむ、やっぱりそれは武士道ではないです。

この意味では、武士道と似ているようで、実は武士道とは対極にある宮本武蔵的な美学の方が、現代には受け入れやすいことは確かで、端折って強引にマメてしまえば、宮本武蔵は他の為には生きない。基本が個人主義なんだな。

ところが、結局「他」の為だろうが「自」の為だろうが、どっちにしろ、多くの人間は、どっかで虚しくなっちゃうわけで、そこを禅の力を借りて、止揚してしまえばそれが「道」となるんだが、禅というのは、基本は、目の前でパンと手を叩いて「今鳴ったのは、右手か左手か」みたいな誤魔化しと、すっとぼけであって、だからどうしたという話がほとんどである場合が多く(降りた人間のいい加減な解釈)、結局のところ、個人の感情として、上手く止揚できないことが多い。ここで面白いのは、それでも「自」より「他」の為に生きることの方が、同じ突き詰めるなら、はるかに楽チンであることは、見逃されがちなこと。誰もが宮本武蔵じゃないし、単純に、そっちの方が楽なんだけどね。自分に言い訳効くし。にも関わらずというか、だからこそというか、殉じることは美しいと思われがちだ。

と、何でこんなこと書き始めたか、自分でもわからないくらい、意味不明なことを淡々と書いてしまった。