電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ぼくの大好きな青ヒゲ

ヒゲはいいよねーヒゲは。何か自分にとっては、やっぱり自由の象徴でさ。30代前半まで、銀行とかそういう固い世界で仕事していて、そうするとだ、ダブルのスーツを着ているだけで、いい顔されないわけだね。さすがに今は違うだろうけど。お偉いさんに、プロパーが、髪を下ろしているのは止めろ上げろと説教くらっているのを見たことがあって、心底五月蝿いよって感じでさあ。そこにアンダーセンとかの外資のコンサルだけが、偉そうにヒゲ生やしてウロウロしていると、殺意を覚えたもんだ。しかし、世の中はそういうところから、お金が落ちてくるので、あまりそういう世界から離れてしまうと、貧乏になってしまう。しかも、そういう世界から離れることで、自由になったのかと言えば、それは勿論そんなことはなく、極論してしまえば、ヒゲを伸ばす自由を得ただけで、それ以上の異なる不自由さを身に纏うことになった。

自由なんてどこにもないのだ。そんなことは当たり前であって、結局人は自分にとって、少しでも飼いならし易い不自由さを飼いながら、いやそれはきっとその不自由さに自分が飼われていることを、勝手に主客を引っくり返してそう表現しているに過ぎない。

川本真琴に、突如、興味を持ったのは、ユーチューブで末期の2001年くらいのツアー(金髪でセミロングに近く、曲によっては眼鏡をかけている)で「DNA」を歌っているのがあって、ええーっこれナニ? と思ったのがキッカケとしては、一番大きいのだが、歌い方も初期とそんなに大きくは変わらないし(小さくは変わっている)、投げやりとも言えるが、その分こなれているし、ソウルフルになっているとも言えなくないし、とにかく自分の知っていた川本真琴と違っていた。

何より顔が違う。実は、ここに一番興味をもったのだ。それは、椎名林檎の顔が物理的に違うというのとは異なり、いやそれはそれで好きなんだよ、まさに閃光少女でさあ、林檎ちゃん、貴方の今に閃きたいというか。しかし、川本真琴の場合、内面からの変化だとしか見えないような変わり方で。

「ten.cut.plus./clip 1996-2001」というDVDには、全シングルのPVとオマケが色々入っているんだが、何故か「fragile」が、4つものバージョンが入っていて、これが実に面白い。ひとつはシングルになってアルバムにも収録されている10分超の原曲(とPV)、2つ目が、これがあまりに長過ぎるということで5分超に再編集されたらしい、次のシングルのカップリングで収録された「re-fragile」(色々な意味でタイトになっていて聴き易い)、加えて、面白いのが、まだ仮詩で歌われている「ゴスペル」と仮題されたデモテープ、そして、上記の「DNA」と恐らく同じツアーで歌われたライブバージョン。

「ゴスペル」と仮題されたデモは、曲が彼女の曲でないことあるのかもだが、黒さが直撃の典型的なソウル・バラードであり、これはこれで悪くない。のだが、これが大作のシングルに昇華された段階で、既に黒人音楽的なニュアンスは削ぎ落とされ(違うカタチで入ってはいるが)、確実に違うコンセプトが生まれており、それがライブではさらにライブ的に突き詰められて、最初のデモの段階とは、まるでニュアンスの違う曲になっている。あのカワマコが叫んでいてビックリというか。この短期間における変化は、まあ曲なんてそうやって作られるもんさと言ってしまえば、その通りなのかもしれないし、それを、5年しかない川本真琴のメジャーにおける活動期間と、強引に重ねあわせるのは、いささか無理があるのかもしれない。それにしたって、「私まだ懲りてない、大人じゃわかんない」とか「イケナイことでも経験したいの、体で悟りたい」とか歌っていた少女(と言いつつも二十代前半だ)が、「この場所から真っ直ぐ歩くことに僕はとまどっている」と歌うに至る過程を、何より作品が雄弁に語っていて、2ndアルバム以降に作られた「Blossom」という、やたら寂しく美しい曲を最後にメジャーから離れた(そこには余人には想像つかない物理的な理由があるんだろうが)、一人の少女の成長(と言えるのかどうか)の物語を、静かに俯瞰できる仕組みになっている。

そうやって、すべてを俯瞰してしまうと、これもDVDになっている1997年の「早退」ツアー(ファーストの曲が全曲入っている)で、「ひまわり」という曲を歌う時に見せる、びっくりするほどのあどけなさ、そこからわずか1年くらいしか経ってない筈なのに、CDTVで「桜」を歌った時の(これはユーチューブで探せる)、微妙な翳り、それらすべてが不思議と胸を打つ。

「ぼくの大好きな青髭」のラスト(は、この四部作のラストでもある)は、主人公の薫くんが「この青髭を好きになるなんておれに出来ると思うかい?」と問いかけると、「あなたなら出来るわよ」と彼女が応えるところで終わる。

ここでの「青髭」とは、世界そのものであり、人生であり、そしてサリンジャーが書くところの「太っちょのおばさま」であるわけだが、恐らく川本真琴は、青髭のことが好きになれないし、だからこそ表現者であると思うのだ。別にいいじゃん、嫌いなものを、無理して好きにならなくても。