電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

待たない

太宰治の掌編に「待つ」というのがあって、太宰は既にパブリックドメインだから、ここに全文転載したくなるような長さの短編なんだが(とかしてもいいんだよね? パブリックドメインは。それともどっかに許可とかいるのかな?)、自分がこれを読んだのは、自分ぐらいの歳の連中がそうであるように、新潮文庫であり、解説が絶賛一色の奥野健男で、人生の意味を凝縮したとか何とか、この短編に対しても絶賛だった。

他にも「待つ」という行為が主題となった傑作というか、名作は色々あって、例えば、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」という戯曲がある。小劇場・アングラ芝居全盛時代には、シェークスピアを超えて、聖典に近い扱いを受けた作品であり、つかこうへいも鴻上尚史も、この本歌取りをやっている。ところが、原典の「ゴドーを待ちながら」は、正直なところ、大して面白くないわけだ。これは、太宰の「待つ」にもいえていて、いや言いたいことはわかるんだけどさという感じなんだが。

つまり、テーマ性が、はっきりしてわかり易いから、必要以上に傑作扱いされるという。「待つ」という行為は、それほど、人生を象徴している。

ツイッターハッシュタグ(意味は各自調査)に「#followmeJP」というのがあって、毎月第4金曜日だったかに、これを使った「フォロミー祭り」というのがある。昨年の11月だったか、12月だったか、自分もこれに参加したことがあるんだが、あっという間に成立した相互フォローを、あっさり数日後に切ってくる人が結構いて、1回参加しただけで止めてしまった。ちょっと自分が求めるモノとは違うかなと。

ツイッターは、待っていては面白くならない。いや、何でもそうなのかもしれないけれど、何においても「待つ」人が多いというのが前提で。ええっ。これツイッターの話だったのか。

何回も書いているが、自分はつまらないところで小心者で、神経が細いというか、気遣いしいというか、マイミクを自分から申請するなんて出来ないとういうか、ドキドキしてしまって、思わず待ってしまう。いやいや、自分の特性や感性を、ウジウジ書いている場合じゃなく、そういう自分が、何故かツイッターだと、自分からフォローすることが可能であるということが重要で。

つまり、フォロー/フォロワーという概念に限らず、ツイッターの最大の特徴は、その敷居の低さ。システム自体が、その敷居の低さを担保しているわけだ。こと単純に、フォロワーを増やしたいなら、上記のフォロワー募集タグ打って呟くより、それを検索して自分から片っ端からフォローしていった方がはるかに早い。

当然のことながら、そういうツイッターであっても、ツイッターの孤独というのはありえて、呟けば呟くほど孤独が増すなんてことだってあるし、現実にそうやって嘆いている呟きも、すぐに見つけることが出来る。つまり、どんなに敷居が下がっても、コミュニケーションの敷居は、依然として、そこに存在する。高い敷居を越えられないのは、当たり前だが、低い敷居を越えられなければ、それは立派に苦悩になりえるわけだ。

色々なことが変わっていく。人と人がコミュニケーションを取るという行為の方法も意味も、どんどん変わっていく。勿論、いいことばかりではない。下がった敷居は新たな混沌をもたらす。もうその兆候(というより既に結果)が出ているということだ。新しい意味が確実に生れ始めている。

それでも、と思う。やっぱり、自分は、待っている。ツイッターで、ということではない。人生において。そういうものだと思う。変わらないものは、どんな時代に、どんなシステムが現れても変わらないし、だからこそ、変えられることは、さっさと変えるべきなんだと思う。