電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

八百長を元から包含している大相撲

さて、大相撲の八百長問題。

大相撲は、近代競技の成立以前に、まさに大相撲としか呼べないものとして、既に成立していた。現在の財団法人相撲協会が運営する「大相撲」自体は、それほどの歴史は持たないが(それでも相撲協会の成立は大正年間だ)、相撲は元々ルールがシンプルであることもあり、江戸期の勧進相撲の誕生を、大相撲の成立と考えていいと思う。ちなみに、大相撲というプロ興行の歴史と平行して、実は戦後すぐにアマ相撲を統括する、相撲連盟(こちらも財団法人)も成立していて、話題にされることはあまりないものの、それなりに競技化されながら(階級制を採用している)、今も続いている。

大相撲は、プレモダンな状態から、モダンを経験しないまま、ポストモダンな世界に直面し、立ち竦んでいる。現在の大相撲の状態は、まさにこの一言で集約できると思う。

自分は総合格闘技のインサイダーになって以来、大相撲やプロレスという近接ジャンルに対して、ともすれば暴露ネタと取られかねない書き方は、ずっと自粛してきた。が、今回の連載は、諸々考えることがあって、自分に課していたいくつかの禁を破る。

古くは、前田日明に「目指すは財団法人相撲協会」、近年では、マッスル坂井に「世界一のプロレス団体は相撲協会」と言わしめた大相撲。

そうしたプロレスとの比較で語るなら、現在のプロレスが、ワークを前提とした格闘演劇であるのに対し、大相撲は、基本がシュートを前提とした格闘演劇である。イチイチ根拠は書かない。大相撲の番付がどう決定されるのかと言えば、それは前場所の戦績であり、多少の問題は指摘されつつも、少なくとも、全シュートが前提の、ボクシングの世界ランキングが機能している程度には、真っ当に決定されている。が、その前提となる、前場所の戦績自体が、ワークを含めたものであるので、根本的に、ボクシングや、現在の総合格闘技とは、別のジャンルなのだ。勿論、プロレスとも。

間違いないのは、大相撲において、それは最近そうなったのではなく、成立期からそうであったと考えるべきで、最近になって、不正が蔓延したということではない。ここが重要だ。その論拠としては、元から、ガチンコや注射といった隠語が存在することのみ、挙げておく。

以上の事実に、異論がある方に対して、今ここで自分が、これ以上説得力がある資料は提出できないし、提出するつもりもない。なので、上記に同意出来る方のみ、読み進めて欲しいと思う。また、上記の言質に不快な思いをされる方も多いだろう。深くお詫びさせて頂く。ごめんなさい。

プロレスが、ワン・アンド・オンリーなジャンルであるのと似て、大相撲も、ワン・アンド・オンリーなジャンルであり、競技という側面から、大相撲を捉えたら、現在に至るまで、その競技性は極端に低い。大相撲は、大相撲としか呼べないジャンルなのだ。

当然、過去の大相撲を、競技として捉えて、問題点を挙げていたらキリがない。勿論、そうした詐称性を大相撲は持っていたということで、そこはどうしても問われてしまうわけだ。横綱審議委員会のような、単に世間に対するガス抜きでしかないシステムこそが、まさに八百長であったという。横審でこそないものの、名誉職を与えられ調子に乗っていた、やくみつるは、早く切腹しなさいね。切腹したくないなら、口をつぐむべき。お前の品格が一番低い。システムの内にいる人間は、語れないんだから。建前を貫くしかないんだから。

今後の大相撲を考えていく上で、果たして、競技化すべきなのか、という事を考えたら、別にしたっていいんだが、そうしたら、随分と別物になってしまうんじゃないのかという疑問が、まずは浮かぶ。異形の大男がくんずほぐれつ組み合って、豪快に投げ捨てるからこそ、大相撲なのであって、競技化してしまったら、その大相撲の大相撲たる部分が、大きく失われてしまう可能性が高く。それでも、競技化すべしというなら、階級制の導入まで視野に入れるべきだろうし、そこまではさすがにという事でも、1年6場所なんて無理なんだから、3場所位にして、あとはワーク前提の地方巡業の数を増やして、収支構造を考えたらどうだろう。最も、この時代に、地方興行を買う勧進元が、どれだけいるのかと言ったら、多いに疑問なんだが。既に、オフィシャルで募集しているくらいだし。

古典芸能を、国が援助するように、大相撲を国が援助するのは良い事だと思う。なので、大相撲が財団法人であり続けることは特に問題はないと思う。かと言って、それが、現在の叩きたがりな世間に許容されるのかと言ったら、難しいこともまた確かだろう。

さらに、もうひとつ。NHKの放映権料は、大相撲協会にとってかなり大きいとは思うが、勿論、それだけではない。観光に近いノリで訪れる多くの観戦者以上に、スポンサーの集積によって、大相撲は支えられている。砂かぶり席で反社会勢力な方が観戦したことが、少し前に問題にされたが、あの席のチケットには「維持員席」と書いてある。つまり、大相撲は収支的にみたら、一般ファンに支えられているのではなく、小スポンサー(と地上波を提供するレベルの金額に比較して「小」という文字を使ったものの、決して小さい額ではない)の集積によって支えられているのだ。そうやって、大相撲という文化を支えてきたスポンサーの方々、つまりタニマチが、今回のような騒動が起きるたびに、どんどん離れて行ってしまうことが、容易く予想出来る。タチマチを、その異形ぶりと非日常性で、気持ちよく騙せてこその大相撲だったというわけだ。そして、その異形ぶりこそが、根本的に競技化の道とは反することもまた確かで。

時代は、益々、狭量さを増している。

であるなら、全ガチ大相撲が、果たしてどうなっていくのか、そもそも可能なのか、少なくとも個人的には興味が沸く、その方向での生き残りに賭けるしか方法はないように思える。だったら、本気で不正を防止するシステムを目指すしかない。勿論、キーポイントになるのは、外部からの血を入れて(横審みたいな人生上がった爺さん・婆さんじゃダメだよ、現役バリバリの法曹関係者とかを入れないと)、真っ当な監視システムを如何に構築するかに尽きる。そうしてガチガチにしてみて、それでダメなら、また混ぜてみるという手だってあるわけで。

但し、最大の問題が残っている。相撲のワークは見分け難いんである。上にいる運営側の人間が、本気で取り締まるつもりになったとしても、多分、試合だけからワークをワークと断定するのは、専門家をもってすら不可能の筈だ。だからこそ、ワーク混じりのシステムが生れたとも言えて。では、どうしたらいいのか。ここが、最大の問題で。

ガチンコ力士であったという説が強い元大関・魁傑、つまり放駒親方が理事長である限り、少なくとも、さらに踏み込む可能性が高いので、ワクワクして待ちたいとも思う。今、放駒親方を叩いて、理事長降ろしちゃ絶対ダメだよ。そんなに多くないんだから、ああいう人は。現時点で出た決定をみても、その覚悟は充分伝わってくる。

さて、総合格闘技の話に戻そう。

真剣勝負を前提とする総合格闘技は、近接ジャンルでありながら、大相撲とは徹底的に別物である。勿論、ガチンコ力士という言葉がある以上、システムの外に存在する力士が、それなりにいることも確かなのだが、今回のような話を見て、なお、総合格闘技に曖昧さを残せとは、自分は言う気にならない。曖昧さは可能な限り排除し、競技化を促進し、公正さを表明し続けるしか、生き残る道が思い浮かばないとも言える。

相撲だって八百長なんだから、総合格闘技だって八百長なんだろ? そう言わせてはいけない。

最も、総合格闘技の世界、冷え込み過ぎて、売買するような価値が星になく、八百長などやりたくても出来ない、アレはコストが掛かるんだ、などと書いても笑い話にならないところが切ない。