電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ロックンロールは結構鳴り止む

斉藤和義の「ずっと嘘だった」に対しては、色々な批評が出切った感じで、それ自体は誰がどう思おうが勝手なんだが、間抜けな批評が多くでうんざりする。

詩のいちいちを精査して、ここがおかしいとか、どこが未熟とか、そういう話を書きたがる馬鹿が多いというか。いや別に書いてもいい。けれど、それを馬鹿じゃねえのとこちらが言うのも自由。保守はクラシックでも聴いてろや。いわんや、音楽の当事者からもをや。

RCサクセションが「カバーズ」を発表した時、ロッキンオン・ジャパン(だったと思う)で、渋谷陽一清志郎にカラんだ。記憶で書くので、どこまで正しいかは自信が持てないが、要はそんなに世界を単純化して原発を批判しても意味ないんじゃないかという指摘だった。それに対する清志郎の答えは、五月蝿いよモゴモゴというもので、さほど論理的に有効な反論ではなかったように思う。

自分もまだ若く、何でもかんでも屁理屈語っちゃうぜという年頃だったから、どちらかというと渋谷陽一寄りの見方をして(その前のレザーシャープスの方がカッコよかったし)、カバーズというアルバムは、アルバムを通すとそんなに好きじゃない。おお三浦友和がゲストだぜみたいな扱いで。勿論、好きな曲もいっぱいあるんだが。

このアルバムが発売禁止や放送禁止になったことで、色々な事件があって、タイマーズでは、不謹慎・過激な方向に突っ走り、RCとしても清志郎が「君はLOVE ME TENDERを聴いたか?」という自省的な曲を出したりする。

まあ、こういう話もどうでもいいか。

「ずっと嘘だった」は、その冒頭部分の歌詞からして、清志郎の「サマータイム・ブルース」へのオマージュ・リスペクトソングであることは、一目瞭然だろう。勿論「ほうれん草食いてえな」という歌詞も。

元がいい曲だし、それをセルフカバーしたという事もあり、そう思った瞬間、自分はこの曲に乗った。「ずっと嘘だった」などという世界を単純化したシンプルさ故に、深く考えれば大した批評性は持ち得ない歌詞が「何かが以前と違うんだ」、「なんでだ全然鳴り止まねえ」という感じで。

つまり、個人が乗れるか乗れないかという話で、詩を精査して云々するのはすべて野暮。精査する事自体がロックじゃねえよという。動画のアップ&デリート騒動の翌日のユーストのライブで、「ずっと好きだった」を歌い終えた斉藤和義が、再び同じブルースコード風な前奏を少し抑え気味に弾き始めた時のワクワク感。それがすべてでいいんだよ。高々ロックなんだから。わざわざ、されどと続ける必要性を、自分は感じない。