電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

初めてのTOEIC

24日に初めてのTOEIC受験。結論から言えば、これがびっくりするほど出来なかった。出だしのヒアリングで、あれっおかしいなもう少し聞き取れる筈なんだがと思って、その聞き取れない感に戸惑ってペースを掴めないまま、ズルズルといってしまった感じ。

受験前は600点くらいは取れて当然、このレポートにも年内目標700点なんて書いてはいたが、実は1回目からその程度は取れてしまうかもなとか思っていた。が、世の中そんなに甘くなかった。へたしたら500点とかなんじゃないのか。……がっくり。

駄目なところは明確で、精聴と速読。ヒアリングは曖昧に意味が取れてもまったく意味なし。リーディングは正確に読めても遅過ぎて時間足りず。試験前から恐らくそこが弱い筈だと思っていたところが、予想以上に弱かったという。まあ、自分の英語力が未だ如何に無いかは結果が出てからさらに精自嘲(?)するとして、今回はちょっと別件の話を。

TOEICなんかじゃ本当の英語力は計れないとか言う奴は山ほどいて、少し前ツイッターでも、どこぞの、脱税した、胡散臭い風貌で自分の専門ジャンル以外の事を上から目線であっちこっちでまくしたててる似非学者が、企業が採用にあたってTOEICを利用をしている事を否定して、本当の英語力をみるなら英語の出来る人間が面接すればいいだけだ云々言っていた。この人、たまにネットで見かけると、ほぼ例外なくいつも粗雑な論理を振り回していて、つまり名指しで緻密に反論するレベルにないんだが、というか、如何にもだらしない感じの人で、自分との共通点も多く、特に脱税話なんかは、ああよく分かる、申告面倒くさいんだよねえなどと同情してしまうところもあったりして、いやいや、閑話休題

TOEICを評価するにあたって、よく言われる言い方として、TOEICが出来たからと言って英語力があるとは言えないが、本当に英語力があれば間違いなく高得点が取れるという奴で、これまったくその通りだと思う。加えて、評価すべきというか、もっと強調されていいところとして、その競技性なんじゃないかと思う。

最早誰も覚えていないと思うので簡単に触れておくが、自分は大昔に総合格闘技という20世紀末から始まった興行だったりスポーツだったり、国内事情としてはプロレスとごっちゃにされたり、そういう曖昧なジャンルを、真っ当な競技スポーツとして立ち上げるべく、色々やっていた事があって、このブログにも諸々散々書き散らしていたのだが、その頃、よく使っていたのが、この競技性という言葉だった。

兎にも角にも、競技において前提となるのは、一般性と公平性だ。TOEICの場合、一般性は当然として、評価すべきはの公平性であって、但しこの公平性、普通に読むと、フムフムどの受験者に対しても公平であるわけだなと思われがちだが、実はそんなのは前提の前提というか、この場合の公平性とは、時制における公平性というか、記録における公平性なのだ。違う場所、違う時、違う問題で受けても、300点は300点であり、900点は900点、勿論揺れや誤差はあるだろうが、それを正すべく主催者側が微調整を続ける事で、記録の公平性を保証しようとしているわけだ。

だからこそ、企業が人事採用の基準に使えるんだね。企業が自前で英語力を計る面接などやっていたら、その面接官の育成からの問題になってしまう。しかもちょっとデカい企業であれば、数百人の人間に対して一体何人の面接官を用意しなくてはいけないのか、統一の判断基準はどう作るのか、それはすべての受験者に対して真に公平なシステムになるのか。勿論、私企業が採用にあたって不公平な部分があるのは当然で、パパガオヤガイシャノブチョーであるとか、オジサンガセイジカノセンセーであるとか、そういう事が評価されるのはしょうがないとしても、ある限定されたスキルを評価するにあたって、それ単体の評価が不公平であっては、評価する側の企業だって色々困るのである。

その意味で、英語力というスキルの熟練度を計るにおいて、TOEICの結果をみるというのは、ベストに限りなく近いベターであると思うのだ。

まあ、こんな事書いてる暇があるなら、単語のひとつでも覚えてろという話ではあるんだが、それとこれは別だよな(という事にしておいて)。