電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

あまちゃんとパシリムの夏

少なくとも、おれにとってはそうだった。「あまちゃん」が、いよいよ来週で終わり、そうして今年の夏が終わるんである。

まずは「パシフィック・リム」について。

もうツイッターでは自分も散々に呟いたし語りつくされてはいるんだが。ただ、どうしても引っ掛かるところがあって。例えば町山さんほどの人でもオタクにフックが強かったからヒットした的なことを言っていて、それは違うと思うのだよ。あれは、オタク心などない、もしくはとっくに失ったオヤジの、ない筈のオタク心を掘り起こして、引っ張り出して、かきむしってくれるから凄いんである。それがメイニアック(ベロニカ・リスペクト)なモノを一般化するということで。逆に言えば現オタクな人には、あの映画の本当の凄さは理解出来ないんじゃないかとすら思う。

日本のアニメや特撮リスペクトという観点ばかりから語られがちだが、例えば冒頭。KAIJUは橋を横から襲う。これはハリウッド映画の定番だよね。直ぐにイェーガーの出撃となる。剥げた塗装、初動は合掌ポーズ、そうして二人でガシーンガシーンと歩き出す。このあたりで、もう目がウルウルになってしまい、以降それがずっと続くと相成るわけだが、細部のオマージュ探しより、むしろそのセンスの研ぎ澄ませ方こそ重要であると思う。

あんまり言ってる人がいないので、ツイッターでは既に呟いたものの、ここにも記録しておくけど、むしろ「ストリート・オブ・ファイヤー」との類似点を強く感じた。あれがロックンロール・フェイブルであるなら、バシリムは、怪獣フェイブルなんだよね。定番を踏まえたセンスの研ぎ澄ませ方と、その一般化の見事さこそが重要で。冒頭の構造なんて、ホントそっくりだと思う。

さて、そうして話は「あまちゃん」へと向かう。どうもクドカンはピンと来ない(ことが多かった)。その理由を理解できた気がする。この人、本領がテレビドラマなんだね。自分は、この人のテレビドラマはほとんど観ておらず、監督作やホンを書いてる映画しか観てない。「あまちゃん」スタート時期に公開された「中学生丸山」も、細部が雑(なのは予算問題が大きいとは思うものの)、惜しさ満載だった。

クドカン、長ければ長いほどいいのではないか。本質的に大長編向きな気がするんだな。

近年の朝ドラの比較で語るなら(自分が震災以降からしか観てないので)、物語としては「あまちゃん」より「カーネーション」の方が見事だと思う。その物語性の高さ・上手さが抜けているのだ。

けれど「あまちゃん」はその登場人物たちに対する愛着の湧き具合がハンパないのよね。愛おしくなって、何度でも観たくなる度合いが凄くて。そういう意味で「カーネーション」を圧倒的に凌いでしまっている。

個々はマニアックであってもフックの強いネタで、それが様々なベクトルに大量に撒かれていて、例えば10個撒かれた餌に、2つか3つ食いつけばいいように出来ているわけだ。その為にこそある程度の長さが必要だという。そうして、登場人物は一般性を獲得し、愛おしさが増していくという構造になっている。

ロクに観てない人からすらも散々語られた(笑)、震災の描き方についても触れておく。これは正直なところイマイチであった。マンガ「さんてつ」と、さかなくんの実話に頼ったネタ(というか、事実のまんま)など、配慮というか遠慮が強過ぎ、物足りない。さすがに震災からは時間がなさ過ぎ、まだ客観的にネタ化が出来てない感じで、オリジナルなことは作り辛かったのだろう。

かと言って、ネットで散々笑われていた「原発を描いてない」とか、そういうことを言いたいのではない。

例えば太平洋戦争。映画・ドラマにとって、この戦争は既にネタでしかない。特に朝ドラ(その多くは未見だが)は延々とネタにしてきた。自分が観ているここ数年のモノでも、「おひさま」「カーネーション」「梅ちゃん先生」もネタとして使っている。そこで描かれる大戦は、反戦だなんだという政治的な主張などどうでもよくなっており(好戦的なのは避けるのは前提として)、要は不可抗力としての不幸の総体が戦争なんである。

その意味で、クドカンならば、震災をネタにして、もっと出来た筈だという。

が、まだ一週間ある。クドカンが仕掛けたオリジナルは、ユイちゃんのトンネル・ネタ。これも事実を元にしているわけだ。けれど、そこに登場人物を絡ませ、物語を紡いで物語としての出口を作っていく。事実を再生してやることではなく、物語としての出口を見せることこそが、物語作者の務めだと思う。

ユイちゃんは元気にはなったとは言え、実はまだトンネルを出ていないんだね。最終週の予告編を見る限り、期待は出来そうだ。トンネルの出口は用意されている気配がある。そうして、そこまで描いてこそ、あまちゃんの夏が、ようやく終わることを許されるんである。