電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

「どこかよそでやってください」と言いたくても、よそはないのがツイッター

日々ツイッターの理解を深め、より有効な活用をすべくフィールドワークに勤しむ日々であるわけだが(遊んでいるだけだろなんて言ったらオジさんは怒りますよ)、確実な結論としては、やっぱり荒れないね。ツイッター

「匿名」というのは、本来、名前を隠すことの意味しか持っていなかった筈だ。それが「匿名性」と「性」という度合いをつける必要が出てきたのは、インターネット上で「匿名とは何か」という命題が発生したからだ。つまり、匿名ではあるけれど、自己同一性は明確である場合、それは一体どういう存在なのかという話になって、初めて「匿名」は「匿名性」と「性」をつけて度合いで計る必要が出てきたという。

簡単な話で、本名非公開の著名ブロガーは匿名なのか。これは二元論では語れなくなる。リアルな生活における本名を隠している存在であっても、固定のハンドルネームで自己同一性を保持しながら、そのハンドルネーム自体が著名になった場合、そこに実名性が発生して、匿名性が下がるわけだ。

何が言いたいのかといえば、自己同一性を確保している人間以外の存在を許さないシステムの場合(難しい言い方をしてしまったが、ほぼすべてのSNSや、ツイッターもこれにあたる)、2ちゃん的・匿名掲示板的な荒れ方はしないと考えていい。

自己同一性が保証されている場合、荒そうとする奴は、必ず捨てアカウントを使う。これは古き良き時代のパソコン通信の時代からそうで、ニフティには、ファミリーアカウントというのがあって、これが捨てアカの温床だった。ミクシィは認証が厳しくなって、昔のように別アカはとり難くなったが、未だやろうと思えば可能だ。

それでも、結構すぐバレる。システムが、そういう風に出来ているわけだ。2ちゃんなどの自己同一性を保証しないシステムとは逆に、そうやって荒らす側が勝てないようなシステムになっているんだね。

この意味では、「ミクシィニフティにそっくり」という声が多くあったように、ツイッターもそのシステムを踏襲しているわけで、この場合、今度は問題となるのは、荒れなさ過ぎて場自体が硬直化していくこと。簡単にいえば、面白くなくなるのだ。水は澄み過ぎると、魚は面白くないのである(?)。

こういうシステムで、結果として荒しとなるのは、大体の場合、その場を管理する人間自身か、善意の有力者となる。清くし過ぎようとして、ちょっと尖がっている書き手に向けて「どこかよそでやってください」をやってしまうんだね。

自分など、この「どこかよそでやってください」、色々なところで何回言われたことか。言っている側の大半は、本気で自分が正義のつもりで(そして多くは確かにその場の正義であり)、ところがこれ、ある一部の悪意をもった奴に悪用され、意識的に気に食わない奴を追い出すメソッドとして使われるようになる。このケース、かなり多いのである。出て行け荒しというか。これをやられると、場はあっという間に、凍るか腐る。

ところが、ツイッターの新しさは、この慇懃無礼な「どこかよそでやってください」も許容されないシステムなんだね。「貴方が私をフォローから外せばいいでしょ」で終わりなんである。そもそもツイッターには「固有の場」自体が存在しないのだから、出て行けもクソもないのだ。その意味で、東浩紀が書いていた「ハッシュタグに依存すると、昔ながらの掲示板と同じコミュニケーションに陥ってしまう」というのは、まったく、その通りで。

勿論、捨てアカ使用の古き良き荒しは出番がない、SNS的出て行け荒しも無理だからと言って、人はネットでは他人に嫌がらせをしたい生き物なのだ。他人が楽しそうに遊んでいると、それをぶち壊してやろうとする奴は、必ず出てくる。悲しいかな、それが現実であって。砂場の山は必ず壊される。

ツイッターに、どんなカタチでそれが出てくるのか、自分はそれを楽しみに待っている。だって、やっぱり、揉め事が一番面白いんだもの。お前の存在が荒らしそのものだろとか言ってはいけないよ。確かに、そうかもしれないから。