電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

貴方に見えた結果は存在していない

昨日のUFC143における、ニック・ディアスとカルロス・コンディットの一戦の判定が微妙で、ツイッターの格闘技クラスタ界隈は、判定基準がおかしいとか、コンディットのチキン野郎とか、もうUFCなんか信じられませんとか、何でもありは素手ゴロ一番男と男の勝負を見たいんだとか、アメリカ人のヨルゲンセンジョーガンセンと綴らないのは海賊の陰謀だとか、喧々囂々と延々歴史が繰り返されるわけだ(最後のはおれだけだが)。

結論から言えば、亀田興毅ランダエタの一戦に類似したパターンというか、試合終了直後から、よく見ている人間に取っては「あり得る範囲」、素人さんになればなるほど「ふざけんな」というジャッジであって、要は何故あれがあり得るのか知ってさえいれば済むだけという話であって、日本大会を前にしても未だそこそこにしか盛り上がりを見せないUFC、つまりツイッターでジャッジについて呟くほどなら素人さんとはいえある程度のファンである筈にも係らず、何故これだけ文句言う人が多いのかといえば、WOWOW実況解説陣のミスリードを前提として、まずニック・ディアスのマニア人気の高さがあるわけだが、要は、ぱっと見で直感的に感じる結果と、実際のジャッジによって出た結果の齟齬という、まさに亀ラン1そのままというか間逆というか、バイアスが極めて掛かり易い状態だからだと分析出来る。

真っ当にモノを考えたい人なら、もう「ジャッジについて考えると競技が見える」という長い長い連載を最初(第1回「興行屋よ、競技の旗を低く上げよ」はここ)から丁寧に読んでもらうしかないんだが、結局、人類にはこれを丁寧に読んでくれる極々わずかな人と、絶対読まない圧倒的多数の人の2通りしかないという事を思い知らされるだけであって、それはつまり、考えない奴というのはどこまで行っても考えずに直感だけで文句を言って、気分さっぱりしてまた日常に帰っていくという話であって、結局ウジウジああでもないこうでもないと考えて取り残されるのは、最初から考えていて、いつまでも考え続ける側の人間だ。

それが良いとか悪いとかそういう事ではなく、世界はそうして成り立っているという事で、ネットやらSNSやらがどんなに普及しようが、それは変わらない。それはもう分かった。だったら、それを前提としてどうすべきなのかという話なんだが、例えば自分が未だ格闘技のインサイダーであれば、競技普及の為にああすべきとかこうすべきとか、考えられることはいくらかあれど、今となってみれば、世界はそういうものだと、もののあはれを楽しむのみであって、毎度の事ながら、馬鹿が多くて笑っちまうという話。