電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

太っちょのオバさまの為に生きない

原発関連も一見落ち着いてきて、東電の定例会見をライブでツイートしてくれる人がすっかり減ってしまい、興味があるなら自分でイチイチ全部観る必要があり、何と言っても時間がかかるのでそれも面倒くさく、リアルタイムの数値変化に敏感であった自分ですらこうなんだから、事態はまったく収束してないのにも関わらず、早くも原発問題自体が風化しつつあるんだと溜息をつくわけだ。

こういう大きな災害(と単純に括れる規模では今回はないけれど)になると、急に社会問題に目覚める人が多く、それは結構な事であるんだが、どうもツイッター以前以後というのがあって、ツイッター以後で厳しいなあと思うのは、色々な意味で何も考えてない人が当たり前に多数派であるのを、圧倒的な事実として見せられてしまう事で、つまり、世界は太っちょのオバさまばかりであって、だからと言って、太っちょのオバさまの為に生きるのだと言ってみせる元気は自分には既になく、自分を考えるように自分以外の事を考える人など滅多にいないのだという事実を前にしたら、何を言っても世界はどうなるわけでもなく、世界が変わらないなら自分を変えるしかないんだが、この歳になってみるとそれも中々億劫で、ましてや今更自分の事だけ考えて生きても、それでどうなるわけでもない。

サリンジャーの「フラニーとズーイー」とか、カミュの「転落」で扱われているようなテーマを考え続けて生きてきて、じゃあ自分より若い奴に、今こういう本を薦めるのかと言われたら、損するからこんな事考えるの止めた方がいいよとしか言えないんだが、それでもあの頃の自分に今説教出来るなら、好きに生きろと言うだろうなとも思う。