電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

今一番必要なのは格闘技を魅力的に語る力

和良コウイチ「ロシアとサンボ」(晋遊舎)を読んだ。読み終えた印象としては、とにかく知的刺激に満ちた本。

自分の浅い印象だと、サンボとは、共産主義が奇形な状況で生み出したモダンスポーツというか、イメージ的には、こんな感じ。ロシア国内の様々な民族格闘技を集約して、軍隊格闘技とそのバックボーンになる国民格闘スポーツを創設する為に、知的に優秀な軍人とアスリートが何人が国家の管理の元に何人か選抜され、日夜ブレーンストーミングと実践シミュレーションを繰り返し、練り上げられたというような。80年代くらいのハリウッド映画の観過ぎだなどとは言ってはイケナイよ。

が、やっぱり、そんなことはないんだよねえ。共産主義体制においても、結局はキーマンが何人かいて(例えば柔術から柔道が成立していく過程における加納治五郎のような)、そういう個の活躍がなければ何事も成されないわけだ。当たり前だとは思うものの、所詮歴史というのは、個の集積であり、だからこそ面白いのだという事に気付かされる。

本書の前半部分は、このサンボ成立の過程を、オプシェコフ、スピリドフ、ハルランピエフという3人の人物に焦点を当て、生き残る関係者へのインタビューと文献研究から、ソ連的には、当たり前であったハルランピエフ創始者説を否定し、オプシェコフ創始者説への道筋をつけていくことに充てられる。勿論、ここがこの本の一番面白いところであって、知的刺激に満ちているところだ。

オプシェコフ創始者説を取ると、見えてくるテーマがひとつある。オプシェコフは講道館で柔道を学んだ柔道家であって、サンボが「ロシア国内の様々な民族格闘技を集約」したのではなく、スタート時点では単に柔道であったことが、明確になってしまうのだ。このこと自体は、日本では、特に柔道関係者の現場から、半ば通俗的に常識として語られてきた話だが、著者の和良さんは、サンボの側の人であり、ゴング格闘技・元副編集長であり、技術のワラガイでもあるわけで、本書の後半で、そこは徹底的にやっている。つまり、サンボが、単なる柔道の子供ではなく、むしろ兄弟というべき存在であることを、主に技術的な側面から。技術論を語るのが好きな人だったり、格闘技自体を語ることを楽しみにする人にとっては、ここが一番面白いところかもしれない。

そうそう、3人の創始者候補に加えて、去年から始まったNHKの年末大河「坂の上の雲」の主要人物でもある、広瀬武夫サンボ創始者説にも触れられている。勿論、明確な否定だ。これが、剣道の韓国起源説レベルのファンタジーであることは、素人でもわかるのであって、ある意味アカデミックにサンボの成立過程を語る本書で、一刀両断されることは当然なんだが、もう少し筆致に余裕が欲しい気はする。否定することが悪いと言いたいのではない。そういう余裕こそが、この本において唯一食い足りないと感じる、「国家とスポーツ」「政治とスポーツ」というテーマを、大局的に俯瞰し語れる力に繋がるような気がするのだ。

自分は自分が関わる総合格闘技という競技スポーツを、爛熟した資本主義が奇形な状況で生み出したモダンスポーツと捉えていて、そしてそれはニアイコール、スペクテータースポーツという概念に繋がっていくわけだが、そうした視点を獲得して論を進めるには、もう一段高所に立った、上から目線が必要であって、とてもじゃないが、現場で泥水すすって仕事しているうちには無理なんである(実感)。

ゴング格闘技の現場を離れた和良さんなら、サンボのみならず、ブラジリアン柔術や、総合格闘技に対しても、そういう上からの視点、それこそが、アカデミックな視点であるわけだが、そうした視点で語ることが可能な筈なのだ。そこに強く期待する。