電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

競技とは何かを定義してみる

いよいよ「競技とは何か」という話。

自分は20世紀の末から、あっちこっちの掲示板やら何やら、ネットのそこここで、こういう話を延々してきたわけだが、例えば、野球やサッカー(そして多くの学生スポーツ)などは、既に、こういう競技を競技たらしめている条件が、当たり前のように存在している為、今更何故そんなことが必要なのか、理解してもらえないことが多い。プロレスの流れで総合を見始めたファンの方々や、K-1以降の地上波で放映される格闘技から見始めた方々などに、特にそういう傾向が強い。

逆に言うと、野球やサッカーがそうであるような条件が、このまま総合格闘技に生れないままだと、つまり、競技を競技たらしめる条件が成立しないと、総合格闘技に未来などないのである。この意味では、スポーツ興行を行う上で、州単位でスポーツコミッションが存在し、その認可が必要になるアメリカでは、その存在の悪い側面ばかり語られがちなものの、大前提となる条件が最初から存在しているとも言え、条件を満たし認可さえ受けて、その通りにやっていれば最低限のところは満たすわけで、それ以外は多少いい加減なことをやっても、総合格闘技が競技として成立しやすい前提が、社会環境・文化として、最初から存在しているともいえる。

「ジャッジを考える4」 2006.08.13


では、競技とはいったい何なんでしょうか?


自分は、この言葉、英語の「modern sports」という言葉と同義のつもりで使ってます。格闘技に限らず、多くのスポーツは、世界各地で発生し、似たようなスポーツであっても、ローカルルールが存在しているやら何やらの状態、つまり競技化されていない状態だったのが、近代以前。それが、アマチュアリズムを前提とする近代オリンピックによって、19世紀末から、それぞれのスポーツのルールの統一が図られ、やがて近代競技として生まれ変わってきたというのが、大きな歴史の流れです。


勿論、その競技の種類によっては、例外もかなりありますし、元々見世物としての、プロスポーツというモノも存在していました。ボクシングなんかはそうですね。競技によっては、アマチュアの整備が先行したり、逆にプロが引っ張るカタチでアマが発展したりしながら、21世紀の現時点では、アマとプロの境が微妙である競技が多くなってます。


この歴史の要約、物凄くおおざっぱに要約しているので、個々の競技に照らしてみると、かなり外している場合もありますから、それはご容赦ください。とりあえず、ざっくりと流れを理解して頂く為にここまで書いてます。この話だけで、恐らく1冊の本(それでも足りないほど)が書ける話であると思います。


では、競技を競技たらしめる最低限の条件としては何があるか。


イ)統一のルールが存在すること。
ロ)競技者が公平な条件のもとに争うこと。
ハ)そのルールの施行と公平性が保障(*1)されること。


この3つは、大前提です(*2)。が、この大前提が揺らぐことが多いことが問題なんですが…。


さて、これだけ見ても、そんなこと言ったら、総合格闘技なんて、まだイ)すらクリアできてないじゃん、というのが、実情なんですね。まったくその通りなんです。それすら難しいのに、さらに難しいのが、ロ)とハ)です。特にハ)。


一見公平に見える条件ってのは、結構、簡単に作れるんですね。双方を一定のルールの元でヨーイドンで争わせれば、とりあえずは公平に見えたりはします。


が、実はそれだけでは公平性は「保障」されないのです。統一ルールが施行されていること、不公平がないことを「保障」する為には、それを監査するシステムが必要になるんです。


民主主義において、三権分立が必要なように、競技においても、ルールを施行・運営する側と、その成り行きを監査する仕組みが必要となります。選手の側は、自分に対して不公平があった場合(つまり、不正があった場合)、それはおかしいだろと主張出来たり、逆に監査する側から、何らかの違反を犯した選手や関係者に向けて、罰を与えられるようなシステム、つまり一般社会における裁判のような仕組みがないと、公平性は「保障」されません。


簡単に言ってしまえば、連盟とか協会とかコミッショナーとか、そういう組織なり人が必要なんです(*3)。


この話、もっと判りやすく説明するとこういうことです。現代国家には、当たり前のように法律があります。が、裁判所がなかったらどうでしょう。法律が保障されないんですね。罰則規定があって、それを判断する裁判所があって、初めて、法律は法律であることが保障されるようになります。


さて、ここまで「競技」とは何かという抽象論を書いた上で、再び、話をジャッジについて戻します。


1)判定なし(ドローとなる)
2)全体での判定
3)ラウンド毎のポイント制
4)ある有効な状態にポイントが与えられるポイント制


競技化とは、1)の状態から、4)の状態へ進むことだと。何故、そうなるのか。次回、説明します。

*1:この場合の「保障」、初稿では全部「保証」と書いていたんだが「保障」の方が正しいと思われるので、全部修正。

*2:さらに大前提となるのは、勿論「真剣勝負であること」「競技者は勝利を目指すこと」などであるが、これはまさに大前提の大前提であり、競技であることの条件として、わざわざ挙げる必要もないのだが、では何故「競技者は勝利を目指す」必要があるのか、と考えていくと、実は「勝利者に栄誉が与えられること」もしくは「勝利に価値を見出せる環境を保障すること」のような条件こそが、一番重要なことかもしれない。特にスペクテータースポーツ全盛の現在においては、「栄誉ある敗北」も有り得てしまい、そのことが事態を複雑にさせている。アマチュアイズムにおいては、勝者はただ勝者であればそれ自体が栄誉だったのである。

*3:たまたまサッカーのアジアカップを観ていて、思いついたんだが、サッカーのイエロー・レッドカードシステムどは、まさに反則に対する罰則がシステムによって保障されているケースで、どの大会が出場禁止の対象になるのかなど、よく考えられている。とはいえ、大きな大会の決勝で「次試合出場禁止」になった時、その効力は如何なものかなど、その試合以外に効力をもたらすルールとその保障は色々と考えどころだとも思うが。