電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

駄目ゴジラ

さて、ハリウッド版「GODZILLA」である。

ハリウッド新作ゴジラが評判よさげなので、何とか日本公開までに、せめて15本目(リブート前)まで観てしまおうと思っているんだが、これ結構苦行だわー。

と軽い気持ちでチェックを始めたゴジラの過去作チェックは、上記の15本の昭和ゴジラは結局8本しか観てないんだが(再見含む)、その後の平成シリーズ7本、ミレニアムシリーズ6本は全部丁寧に観てしまった。その結果は下記の通り(ツイッターにはもう少し詳細を語っているところもあるので、興味のある方はそちらへ)。

こうして、おれのゴジラを巡る、ひと夏の魂の彷徨は、釈対ゴジラが大傑作であるという新事実を発見したことを唯一の収穫として終わるのであった。……もう秋が近い。

いや季節は今まさに盛夏に突入なんだが、封切り日に観てきたわけだ「GODZILLA」。で、観た直後のツイートがこれ。

GODZILLA」。オキシジェンDもメーサー砲もスーパーXも機龍もドン・フライも出ないけど、ゴジラがアレするので、まっいっか、という感じ。……ギャレス、実はガメラの方が好きなんじゃねーの疑惑。 あと、アレの動きが監督一作目と同じなのは、ちょっとどうなの。

最初はこの辺で止めておいたんだが、辛抱堪らず、はっきり書いてしまった。

封切り初日だから、ちょっと遠慮しておこうと思ったゴジラについてだが、もういいや、はっきり書いておく。すげえ駄作。日本リスペクト、原典リスペクトはあるので、赤点ぎりぎりという表現が正しいと思う。

というわけで、今回はギャレス・エドワーズ版「GODZILLA」を酷評する。以下、徹底的にネタバレとなる。未見の方はご覚悟のほどを。結局、おれにとって出来がよく大好きなゴジラはこの3本しかないというのが結論だ。

   


では、以下本編。

まずは、ゴジラと戦う怪獣(がいることは、予告や煽りでは周到に伏せられている)のネーミングからして駄目だ。ムトーはねえだろムトーは(しかも何故かギャオスと「モンスターズ」のタコ怪獣を足して割ったような造形)。オオタチとかヤマアラシとか名付けたパシリムが如何にセンスがいいか、否、如何に今回のセンスが悪いかという話。制作に入ってる日本人、止めろよ。ここから駄目過ぎ。だからヘドラや今回みたいな駄作しか作れないんだ。

あまりに人間ドラマが薄い。過去のゴジラでも、ここまでドラマが薄いのは珍しいほど何もない。しかも徹底的に空振り。人間ドラマは何も始まらない。否、始まるんだがあっという間に序盤に終わってしまう。そこ以外は誰も動かない。米軍どこまでも無能で無活躍(さすがに指揮官バカ過ぎて苦笑)。渡辺謙の芹沢博士は、アイパッチ芹沢よりむしろ志村喬の役割を負わされ、解説しては嘆いているばかり。出番が多い割りには大した役じゃない。

けどさ、人間ドラマなんていくら薄くとも、ゴジラゴジラなんだから、それでもまだ何とかなった筈なんだが、そもそも、原水爆実験はゴジラを生み出したんじゃなく殺す為のものだったという設定からして、何だよそれ状態。というか、ここは理解の仕方によっては、ゴジラと日本への最大の冒涜と理解することさえ出来る。ここまでデタラメで無責任な原水爆実験肯定は初めてみたわ。

挙句、過去のハリウッド作品と同じように、核兵器原発の脅威を、過小に評価していて駄目に拍車がかかる。ダイハード5か(これのチェルノブイリと核の扱いはとにかく酷い)。過去ゴジラだって、コスモクリーナー的な機能が描写された奴は何本もあった。特に1984年のリブート版「ゴジラ」(廃炉を完成させてくれる便利ゴジラ)。ところが、今回は、ゴジラ自身は核とは何の関係もなく、コスモクリーナー怪獣・ムトーをやっつけに現れるだけなんだな。やっぱり橋を横から壊すハリウッド怪獣映画の伝統は踏襲してたりするが、頼むよゴジラ、ムトーがフクイチ周辺を除染するだけでなく、世界中の核廃棄物を食べきるまで倒さないでよ!

あまりに凡庸なベビーフェイス(ホントはこれをタイトルにしたかったんだが、ネタバレなんだよな)。

こうして封切り前に散々語られていた「原発を巡るシリアスなテーマ」はむしろ欠点としてあげつらうべきとなる。全然ファーストを踏襲してないじゃん。まるで逆というか。

そうして、後半まで溜めて溜めて、ようやくゴジラが口から光線を吐く。放射能という描写はされていないので光線としか表現出来ないんだが、やっとカタルシスが訪れる。溜めまくった演出のお陰で、おおーっとなる。が、後から考えると、スペシウム光線状態。最初からそれ使えよ!

どこまでも凡庸で駄目なゴジラなのであった。デブだし。少しダイエットしなさい(おれも)。

おれのツイッター

すっかりブログを更新するのを忘れていて、現時点でもう7月3日なんだが、とりあえず6月更新分ということで。ずるずる。

何か書くことあったような気がするけれど、一時期のようになんか思いついたら、ブログ用にメモしておくという習慣を失ってしまったので、何も覚えてない。しょうがないので、ネットについてでも書くか。

最近は完全にツイッターが一時期よく言われていた用語である「マイ・ポータル」になっていて、ネットにおけるすべての起点となっている。若干メルマガ通知をメーラーで受けているものの、ほとんどは大新聞さまのタダ会員用の通知だったりするので、あんまり見ていない。そもそも大新聞さまのネット記事だって、ツイッターが起点だ。

自分が呟く方、というか、時事ネタや、映画やドラマの雑感、つまりチラ裏な呟きをする為のツールという用途だけでなく、はてなアンテナRSSという、どうも性に会わずすぐに使わなくなってしまった機能を包括して使えて、つまりPCであれば、Tweenというツイッターアプリがすべて起点になる情報入手(勿論興味が出ればそこから検索したり何なりが始まるわけだ)が、自分のネットライフ(苦笑)に合っているということなんだろう。

一時期散々話題にしていた、フォロー/フォロワーなんていうことも、ほぼ、どうでもよくなっている。読みたいアカウントをいくつかのリストに分類しておいて(この分類も数年間かけて、じわじわ改善している)、あとは、時間のあるなしで、どのリストをどの程度丁寧に読むか決まっていく。

実に快適である。おれの攻撃的ツイッターは完成した。ワールドカップにすら通用しそうだ(と思ったら、予選敗退してしまうのもよくあることで)。

ゴジラにみる文明批評と演出の問題

ハリウッド版ゴジラの新作が、封切りを前にして評判がいい。

日本では何故か遅れて7月公開だが、これに合わせて日本映画専門チャンネルゴジラ全作放送をやってて、とりあえず録画するかと、しこしこ作業。あわよくば公開までに全作観ようと思ったものの、さすがにこれは辛くて断念してしまった。ファースト・ゴジラの出来のよさは改めて認識したんだが、元々自分はファーストだってそんな大したことないだろう説であって(ガキの頃と数年前の2回は観てて、今回少なくとも3回目)、あくまで他が酷いから相対的に浮かび上がっているんじゃないの説というか。

というわけで、おれは基本的にゴジラファンでも何でもないというのが前提。で、全作チェックは早々に断念したが、ポイントポイントで色々とつまんで観てて、ちょっと印象的な2本があったのでそこからの雑感。

まず、1971年・11作目「ゴジラ対ヘドラ」。



これが映画サイトでの評価が高い。監督はこれがデビュー作の坂野義光という人で、この人が今回のハリウッド版ゴジラの制作にも加わっていることや、タイトルから想像出来るような公害問題直結の文明批評的な視点が、ファースト・ゴジラの水爆実験や、新作の原発事故絡みの内容ともリンクすることもあるんだろう。またヒッピームーブメントの影響をモロ被った前衛的なカットがあることや、グロを強調した子供向けには思えない暗いツクリなども評価されているようだ。

一方、その2年後の1973年・13作目「ゴジラ対メガロ」。



こちらは60年代の東宝の粗製乱造ともいえる映画製作を支えてきた一人でもある福田純が監督。若大将シリーズなども撮っている人の作品にも係わらず、最低のゴジラ映画なんて評価もある。何といってもウルトラマン型ヒーローのジェットジャガーというのが出てきて、これが超ショボい。人間サイズのロボットなのに、突如、意思をもって巨大化してメガロと戦い始めたりする(けど弱い)。メガロを擁する地底人が、ウルトラセブンのノンマルトと設定そっくり(パクリに近い)、まったく文明批評性をもたずに単なる悪役になってるところも、低評価の原因かもしれない。

要はこの2作、ともに1970年代の前半の低予算化したゴジラながら、評価が両極端。ヘドラは高く、メガロは低い。

ところが、おれは「ゴジラ対メガロ」の方が全然面白かったんだな。

ゴジラ対ヘドラ」は、お話がちゃんと繋がってない。確かに前衛的なカットは面白くとも、その手のカット以外は積極的につまらない。まったく意味がないまま、だらだらと切れてないシーンが頻出し、いや意味なんかなくとも面白ければいいんだが、面白くもなくて、見ていてイライラする。ゴジラに、空を飛べる力を与えてしまって(笑える飛び方)偉い人に怒られた説(があちらこちらのサイトで書かれている)以前に、監督としての技量が大胆に劣ると思う。映画作品としてまるで駄目。酷い出来。

一方「ゴジラ対メガロ」。前半のきびきびした展開はどうだ。カーチェイスだって悪くない。全体のお話自体にかなり無理があるのも、地上波の戦隊モノに見慣れた目でみれば、大して気にならない。何より無駄なシーンやカットがまったくないのがいい。繋がった話がテンポよく展開していてまったくダレない。後半のゴジラと怪獣の乱闘にしたって、あれ何でさっきやられたゴジラがいきなり復活してるのとか、前後の話が繋がってない箇所が複数あるヘドラに比較して、メガロは一応筋は通っている。コミカルな演出は好き嫌いが分かれると思うが、苦手な方の自分に不快感を持たせるほどではなかった。手練れの監督が低予算に苦しみ、過去作品の使い回しをしながら、何とか完成させた珍品以外の何物でもなく、むしろ積極的な肯定的評価が必要なのではないかとすら思う(勿論、傑作とかいうレベルには達していないけど)。子門真人が主題歌を歌ってるぜ!

その辺の半可通のゴジラファンなら、ヘドラには文明批評性や前衛性があってと過剰に持ち上げていればいいが、マニアな映画ファンで、コアな作品至上主義者としては、そうはいかないんである。

大体、町山さんあたりまで原発問題を扱ってるから今回のハリウッド新作はいい的なノリがあって、そのノリは公開以降に間違いなく強くなることが予想されるのであって、そこが致命的に気に食わない。そんなモノあろうがなかろうがどうでもいいじゃないか。「パシィック・リム」を観よ。映画の出来、作品の出来というのは、もっと本質的な部分で評価されるべきで、文明批評性などとはリンクされるべきではない。

この2作と、丁度同時期の1970年代前半に書かれた筒井康隆の名エッセイに「笑いの理由」というのがある。このブログでも過去2回触れている。

「作り物だからこそ強いんだ」
「笑えない理由」

被るものがある。パロディやドタバタは風刺や批評として効いていると偉くなる的な、権威主義的な評価基準に対し、そんなモノはパロディやドタバタの完成度には何も関係ないのだと、筒井が高らかに宣言した記念碑的エッセイだ。

あれから40年経っても、世界はまるで変わってないわけだ。高々怪獣映画のゴジラだが文明批評性があるから凄いのだ的な言説は未だに語られ続け、おれはそういう意味づけの仕方と持ち上げ方が未だ嫌いだ。そんなことは作品の面白さとは、まったく関係ない。

最も、今回のハリウッド・ゴジラ原発問題とのリンクが、文明批評性というより、話題性と商業的視点から煽りに利用されるのは、しょうがないというより、王道であるとも言え、そこまでを否定するわけじゃないんだが。

それにしたって「ゴジラ対メガロ」において、人型ロボットのジェットジャガーは、倒すべき敵が現れた時、突如意志を持ち、巨大化し、ゴジラと共に敵を倒した後、その意志を失い、命令を与えないと動かないロボットに戻るわけで、なんて素敵なファンタジー、ここにもう少し説得力を乗せられたら、平成ガメラはきっと来るよ的な傑作になっていた可能性すらあることは主張しておきたい。

などと書いていたら、新作ゴジラに対する興味まで失いそうになってしまったんだが、実績ゼロに近い監督のギャレス・エドワースが抜擢されるきっかけとなったデビュー作の「モンスターズ/地球外生命体」を観てみたら、これ、かなり面白い。というか上手い(とは言え、こんなに何カ国も海外ロケした映画が、低予算を売りにしてたら、インディな邦画の人々に怒られると思う。低予算より、小規模でハプニング的な撮影方法こそ強調されてしかるべき)。

……うーむ、やっぱり新作ゴジラには、かなり期待していいんだというのが結論だったりする。



舟を漕ぐ

意識高い系(?)の人たちが、これからの時代はプログラミングは基礎教養的なことを言い出した時、おれはそれは無いと思うぜと半笑いしたクチだし、その思いは今も変わらない。そんな高度なことをやる前に、まずはファイルの概念自体をちゃんと理解した方がいいぜというか。PC系からタブレット系への置き換えが加速していき、益々、ファイルの概念を理解をしないまま、携帯の延長である便利ツールとしてのIT機器とそのOSは練れていき、教養としてのプログラミングなんて時代はやっぱり来なくて、やってくるのは、多くがファイルの概念すら理解しないままIT機器を使いこなす時代なわけだ。

だからこそと思うのは、プログラミングなんて言う前に、基礎教養として、当たり前のファイル概念を理解することと、身体的なスキルとして、キーボードを使いこなすこと(端的にいえばブラインドタッチだ)くらいは、ちゃんと身につけておくと、それがスキルとして充分意味を成す時代がもう一度やってくるのかもしれないぞ。

小保方さん騒動周辺で、一番面白かったのは、そうかお前も理系コンプレックスか、理系が分からないから照れ隠しで馬鹿にしてたのか的な人が、驚くことほど多いこと。そういう奴に限って、文系的薀蓄自慢は大好きだったりする。なあんだ、お前もかを連発だぜ。私学の文科中退のおれがさ。

舟を編むのは非常に特殊な専門職だが、せめてその使いこなし、つまり舟を漕ぐくらいは出来るようにしておけ。今のお前は漕げてない。

ネカマに枝折れなし

佐村河内守や小保方がバキっと折れても、ネカマの勇気くんはタフ。ネカマに枝折れなし。詳細ぐぐれカス。

まあ犯した罪(?)の度合いも、叩かれ度も全然違う。そりゃそうだ。でも偉いよなあ。おれもあんなタフなハートを持ちたいと心底思う。あんなにタフなハートがあれば、受験や英語の勉強ももっと出来た筈だろと思わなくもないものの、恐らくそれは設問の立て方が間違っている。誰でも、苦にならないというか集中が続く領域・ジャンルがあって、一方どうしても出来ないモノがあって、例えば自分だとプログラムを組むという行為だったり、何だったり、長時間集中しても苦にならないモノがある一方(加齢による集中力の低下はある)、未だ英語の勉強はあまり楽しくなくて長時間出来ない。強引に義務として自分に課さないと続かない(から、細切れにして日に何回もやるとか工夫して続けるようにしているわけだが)。肉体労働なんて、もってのほか。苦痛でしかない。

けれど、アフィカスネカマをやることは苦にならない人生って、ちょっと哀しい。もっと他のことが楽しければよかったのに。

たまたま、プログラムを組むことが苦にならない自分を若い時期に発見したからこそ、ここまで食うことが出来た。幸運であったというべきだろう。尤も、それもそろそろ限界にきていて、さてこれからどうするかというところで、色々試行錯誤してるわけだが、若い頃には苦痛だったボーっとしてることが、まったく苦痛にならなくなってきたりして、そういう自分の変化を実感するのは楽しい。若い頃は、時間を無駄にしてはダメだと、ある種の強迫観念があったんだね。

最近は朝から晩までボーっとしてる。単に怠け者になっただけである。それでストレスが溜まらなくなった。だから、それでいいのだ。そうして朽ち果ていくだけの人生になってしまっても、それはそれでしょうがない。勿論、そうではないこれからも色々と構想はしている。どういう方向に変わるにせよ、変わっていくことは昔から苦手ではない。新しい自分を創ることは楽しい。

この項、珍しくオチなし。おお、早速変わってきたぞ。

アフィカスネカマの勇気くん

いや何だよそれという話なんだが、詳細は各自ぐぐれカス。

おれ的には、娑婆で元気にネットゲーマーやってるらしい狂人くん以来の、ハートウォーミング系炎上というか、こういう、その才能をもっとクリエイティブて生産的なところで使えよな子には、どうも弱いんである。ましてやブログにコメントをくれた某業界関係者が山に人を埋めていたなどという話と比べると、もう圧倒的にハートウォーミングで、ネカマ7年続ける心の闇が、おれのハートに火をつけるという感じだ。何も直接的な被害を被ってないしね。

この子はプログラムの勉強などにも熱心で(ポインターって何よという勉強し始めの頃に誰もが苦しむ問題にアドバイスしたこともある)、実際かなりITスキルあるところを見せていたし、何より文才というか煽り才が天才的なところがあり、狂人くんと違ってやってしまったことも犯罪で実刑というレベルではないので、今後もこのまま益々間違った人生を力強く歩んで欲しいと思うが、お父ちゃん(同世代やや年下みたいだ)金持ちそうであるので、まあ、おれなどがお節介やかなくとも大丈夫だろう。

恐らく自分も理力の暗黒面に落ちているからこそ、こういう子に惹かれてしまうというのが前提だが、もし、彼がここを読むようなことがあるなら、是非ともこう伝えたい。世界は安易な市民運動などでは何も変わらない、そのままいけ、キミのような人間だけが世界を変える資格を持っているのだ。

ほとばしるブログ愛

などとタイトルつけながら、新年早々、ツキイチ更新すら忘れるところだった。

今年の目標も最低ツキイチ更新。相変わらずツイッターはそれなりの量を呟いているので、こっちも書こうと思えば、書くことはなくはないんだが、どうもブログということになると、文章凝らないと気が済まないというか、凝らない文章なら書く意味がないというか、凝らないくらいなら書かない方がましというか、そういうことなので、あまり書く気にならない。

他人様とか世間様に報告すべき自分の近況なども特になく、世界に向けて憤るほどのことはさらになく、ぼちぼちでんなと静かにしばらくは生きていく予定であって、また日々の更新が内的に必然となる日もきっと来るとは思うものの、来ないならそれはそれで良い。

ブログというネットにおけるジャンル(?)は、微妙に意味も形式も変えながら、それなりに残っていくとは思うんだが、まあネットの世界、何がどうなるか予想なんか確実に出来るわけもないし、「はてな」なんて会社がどれだけ生き残るのかも微妙であり、まあなるようにしかならない。

と何を書くにしても、かなり投げやりに生きているようだが、そうでもないんだ、オジさん今年もそこそこがんばって生きている(ということにしておいて)。

メリークリスマス、そして良いお年を

そうこうしているうちに、今年も終わってしまうわけだが、今年も実に静かな一年を送ってしまった。最近、まるでもうすぐ死んでしまうかのように、昔のことをよく思い出す。あの頃の自分は五十を過ぎた自分が、家に閉じこもり、仕事もそこそこに、英語を勉強したり映画を研究したりテレビでスーパー主婦を見てそれはそうじゃねえよと一人ごちたりしているだなんて、まるで想像もつかなかった。

このまま、まるで波乱万丈の人生を送った兵が余生を終えるかのように静かに朽ち果てていくつもりなのかと言えば、そんな気持ちはさらさらなく、そもそも波乱万丈の人生なんて未だ送ってなく、それでも、再び胸を熱く焦がすような思いを抱いて、華々しく歴史の表舞台に躍り出るつもり(って何だそりゃ)はあるのだが、つもりはあっても、そのつもりを妨げる様々な困難も眼前に広がっていて、その辺り、何がどうなるのかは自分にも皆目見当がつかない。

少なくとも、もし明日クルマにポーンと跳ねられて死んでしまってもいいように、やり残したこと、やろうと思って出来ていないこと、出来るんじゃないかと思いながらも届いてないことを、こつこつとこつこつと片付けていこうと思っていることに変わりなく、何でそんなことを考えてしまうのかといえば、自分は幸か不幸か、食わせなくてはいけない家族を持つという、人として至極当たり前の責任を負うことをここまで怠ってしまった為、外部から圧倒的に迫られる義務感による生と成功へのモチベーションを持ち得なかったというのが、やはり大きいように思う。

結局この歳になっても、高校生の頃に考えていたことを未だに考えている。たった自分ひとりの為にだけ、もう少し生きてみようと思っている。そうして、やがて、僕が何かを呟くと世界はその瞬間凍りつく。

メリークリスマス、そして良いお年を。

停滞する英語学習

母さん、ぼくのあの英語学習どうなったんでしょうね。最近ちっとも進捗を書かないあの英語学習ですよ。

7月のTOEICの成績が悪くて、悔しくて、ががーっとモチベーション上がって、どどーっと学習量増えたんだが、わずか1ヶ月くらいで萎んでしまった。理由は明確。進歩を実感出来なくなったから。ヒアリング自体というか、いわゆる英語耳はある程度出来るところまで出来た気がして。にも係わらず、ちっとも意味の像が結ばないのは以前書いたとおり。いやいや幾分はよくなってはいる。さすがにね。けれど明らかに止まってしまった。

勿論こんな状態でいくらTOEICを受けても点数が上がることも望めず。そうすると、どよーんとして徐々に学習量は元に戻り、戻っただけでなく少なくなり、10月あたりから、英語学習を始めてから2年で、初めて2日続けて勉強しない日が出来、11月に入ると、遂に一週間無勉強期間も作ってしまい。

ああ、散々ペラペラになるとか書いていた癖に、英語学習、遂に止めてしまうのか、まさかの危機到来。

結果としては、11月の後半から徐々にペースを戻し、現時点では以前程度の学習量には戻している。

けれど、TOEICはしばらくお休みするつもり。少なくとも来年の夏くらいまでは。いやいや、もっと長くなるかも。大きな成長を実感出来るまで受けない。試験慣れという意味ならもう充分慣れたしね。とにかく、もっと英語を頭と身体に染みこまさないとダメだ。あと語彙学習。覚えられないからって、ここのところまったくやってなかったが、これもやり直す。つまり、学習方法自体の試行錯誤は勿論続ける。まあ、そんなにがんばらないけどね。コツコツと飽かず離れず英語に触り続ける感じで。

そうして、来年の今頃には、おれは男になる。多分なれると思う。なれるんじゃないかな。いや再来年かもしれない。

極私的SF映画ベスト10

恒例のベスト10企画、今年は「SF映画ベスト10」ということで久々に参加。
http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20131031 

ここ数年は、参加者増えまくっているようで、集計ご苦労さまです。前に参加したのは、ゼロ年代ベスト10。この頃はゼロ年代の洋画を全然観てなかったけど、ここ数年で随分と観たので、今見直すと選び直したいー。

どうも「SF」と言われると、色々考えちゃう。例えば、今は昔、いわゆる国内第一世代のSF作家が現役バリバリの頃は、SFとはファンタジーの上位概念だったが、今はむしろファンタジーの方が上位概念だよねとか(海外ではそのふたつは別概念! だとか)。なので、むしろ色々考えたくて。しかも、自分がガキの頃からのSFファンで、やがて少なくとも小説においてはそれを卒業してしまった(から若干の疚しさがあって少し語り難い)ので、つまり、SFについて考えることは、自分史を考えることとも近い。

まずは、順位を先に並べてしまおう。

1位)「タイムマシン/80万年後の世界へ」1960年 ジョージ・パル監督
2位)「地球最後の日」1951年 ルドルフ・マテ監督
3位)「パシフィック・リム」2013年 ギレルモ・デル・トロ監督
4位)「恋はデジャ・ブ」1993年 ハロルド・ライミス監督
5位)「スローターハウス5」1972年 ジョージ・ロイ・ヒル監督
6位)「バンデットQ」1981年 テリー・ギリアム監督
7位)「バック・トゥ・ザ・フューチャー」1985年 ロバート・ゼメキス監督
8位)「ガメラ2 レギオン襲来」1996年 金子修介監督
9位)「きみがぼくを見つけた日」2009年 ロベルト・シュヴェンケ監督
10位)「エンド・オブ・ザ・ワールド」2012年 ローリーン・スカファリア監督

さて詳細について。

1位)「タイムマシン/80万年後の世界へ」
2位)「地球最後の日」

不敬という当たり前の概念

もともと根っからの左巻きな為、このネタは結構気楽に書けるんである。

天皇にいきなり手紙が何か差出ししたら無礼だろ。当たり前のことだと思うんだが、どうも、そういうことを言うと、不敬とか戦前じゃないんだからという話になってしまい、言い出すと右翼にされてしまう風潮がある。

相手が天皇であるから問題が大きくなるのは当然だとは言えるが、寺社や皇族に対する無礼を単に不敬というのだ。それを不敬罪という刑法の罪にしたら、それこそ戦前だが、彼は国会議員なのである。ここで、自分はわざと陛下もつけず、天皇天皇呼ばわりするのと違うのだ。パンピー天皇に対して陛下もつけず、さらに言えば天ちゃん呼ばわりしたって、単なる不敬なだけで、何の罪にも問われない。しかし、国会議員が、恐らくこの国で最も礼儀が重要である場で、無礼を働くのは、言語道断を通り越して、その無知蒙昧ぶりを国民全員が悲しむべき事態。道義的責任が問われて当然なのだ。

政治哲学上は天皇制を否定せざるを得ない共産党であっても(今天皇制について公式にどういう扱いしているかは別として)、所属の議員が皇族系の典礼に出るとなれば、礼儀は守る筈で、システム自体を否定すべく行動に表したいなら、そういう典礼には出席しないというのが、唯一の回答だろう。出席したのなら、彼のように無知蒙昧で礼儀自体を知らない奴でない限り、礼儀は守る。当たり前のことなのだ。

アメリカの大統領だって、ヨーロッパの王族には礼はする。天皇にだって礼をする。いやむしろそれは大統領であるからこそ、頭を下げなくてはならないのだ。システム自体を否定することと、オフィシャルの場の礼儀とはまったく別物であることは理解できないのが、悲しいかな庶民。

モノを分かってそうな学者やら識者と言われる人間すら、分かってない奴が多いようで、まったくどうなっているんだ。本来この話は、天皇の政治利用とか、そういう抽象論など、二の次三の次の話である筈だ。

こうして、戦後の開かれた皇室政策は、無知な庶民どころか、ほとんどのメディアと国会議員にまで誤解され、誤ったベクトルの論点が拡散され続けていくのである。

あまちゃんのない毎日は自由な毎日

誰もボクのことを縛りはしないさって感じだぜ、ホント。

確か著名人の誰かが、少し前まではテレビを見ないことはカッコいいことだったが、今では当たり前になり過ぎて、特にカッコいいことではなくなってしまったというニュアンスのことを呟いていた。

これは確かにそうだよなあと思う。5、6年前までは「テレビは見ないからなあ」と言うことは、特に自分のような世代においては、間違いなく自慢だった筈だ。それは、テレビでやってることなんて下らないことばかり、そんなことに時間を使うのは馬鹿馬鹿しいぞというニュアンスを含んでいたわけだ。だったらと思う。それが当たり前になったのならば、別にもうテレビを見たっていいんじゃないか、下らないと思ってたけど、意外と面白いぜ。特に、あまちゃんとか。

しかしだ。そんなノリで連続ドラマをいくつも見始めてしまうと、やっぱり思い出すんである。これキリないよな、他に何もやれなくなってしまう。時間を食い過ぎる。そうだ、そうだった、アメリカもんの連続ドラマが、ドドーっと入ってきた時も同じことをやった記憶がある(「24」とかだね)。それなりに面白いものはいくらでもある。が、やがて気付くんだな。これはキリがないよと。

勿論、そんなにリキまず、もっと軽いスタンスでテレビと付き合えばいいとは思う。ただ、もう何年も主体的にではなく、時間潰し的に、だらだらとテレビを見続けてしまうことは止めようと思っていて(あくまで、おれはだよ。そういう時間の使い方だって、したい人はすればいいと思う)、実際止めていて、かと言って、何をしてるわけでもない、ぼーっとしてたり、マンガを読んでいたり、その程度のことなんだが、連続ドラマを意識的に観始めてしまうと、そういう時間すら尽く奪っていってしまう。

やっぱり映画くらいの時間が丁度いい。きっぱり2時間。主体的に使おうとすると、軽い決断が必要な長さ。余裕がある時は毎日だっていけるが、忙しい時は、いいとこ週一とかになってしまうレベル。

最近じゃ封切りから遅くとも一年後にはBSCS系でノーカットでやってくれる。ブルーレイやらのプレイヤーとテレビはとっくに一体化してるし、ネットともかなり一体化してきたし、録画機能だって主に検索・整理機能も含め充実の一途だ。益々便利になっている。流行りモノを取りあえずチェックみたいな見方も簡単に出来るし、監督やら役者やらに焦点をあてて、体系的に積み重ねて観て行くことだって可能だ。学びに近い。何より主体的だ。

ようやく、あまちゃんが終わってくれて、そういう生活に戻っていくことが出来た。やっばり、テレビなんて、だらだら見るもんじゃないんだ。

あくまで主体的に、積極的な係わり方で、学び的に、ブルーレイとかを観るんである。……あまちゃんのボックスその2とか。まだかなまだかな発売まだかな。

あまちゃんに関して極私的なマトメ

素晴らしい最終週だった。鈴鹿ひろ美のライブシーンは圧巻だったし(TVドラマでこんなに号泣したのは初めて)、はたの駅のアキ・ユイが身を乗り出すようにまだ開通していない東京に向かう線路を覗き込むところから(ここのタメが効いてて凄くいいんだ)、光に向かって走り出すラストラン、もう文句のつけようがなく。

内容について諸々テクニカルな分析をするのは楽しい。が、それ以上に自分に戸惑ってしまうのは、これほどTVドラマに日々の生活が左右されてしまうことが、五十年の人生史上初めてであったこと。ああ、東京に行っちゃうのか、なんかヤだなと思いながら始まった東京編が、あれれ、びっくり加速度つけて面白いじゃないかというあたりから、毎日「あまちゃん」を見ることを中心に、生活を組み立てるという日々になってしまっていて。

人生なんて、いつもさよならだらけなんだから、喪失感など当たり前であって、むしろああこれでやっと普通に生活に戻れるというさっぱり感こそあって、何より社会問題から目を逸らさせる為の権力の陰謀なんじゃないかとすら思うのだ。

何故このドラマが、それほど自分を引き付けたのか、色々と分析は出来るものの、まあその辺はどうでもいいや。

前回クドカン長ければ長いほどいいんじゃないかと思ったんだが、致命的にこの人、演出(映画でいえば監督)は、あまり向いてなんじゃないかというのが、現時点の私的結論。細かいこと書きたがるわけには演出は雑で。例えば「中学生丸山」でエンケンが最初に爆発するシーンがある。ここが明らかに数カット足りないんだよね。何でこれで最後が拍手喝采になってしまうのか、頭の中で補わないと足りない。恐らく、それはポカーンと眺める聴衆とか、そういう数カットであると思うのだけど。古田新太が「面白くないホンを面白くやるのは簡単だけど、面白いホンを面白くやるのは難しい」的なことを言っていて、つまりクドカン、ホンの面白さに演出力がついていってないのではないのかと。

ステラのメモリアルブックやオフィシャルやら何やらを読み漁る限り、やはりのこのドラマ、演出班を中心にスタッフの仕事が素晴らしいのよね。穴というか隙間のあるホン(結構そういうとこある)の、その隙間を埋めていく作業が素晴らしい。勿論、能年・橋本コンビの魅力に加えて、キャストが全員見事な仕事してるというのも大前提。

ドラマらしい総合芸術というか、恐らくNHKでしか有り得ない緻密で高度な集団作業の結果が、すべてがいい方向にピタっとハマった成果というか。

ツイッターで「おれは、あまちゃんにはハマってないので」というフレーズを色々変形しながら繰り返しネタにして、どう見たってハマってるとしか思えない細かい分析などを散々呟いてきたわけだが、自分の人生において、「あまちゃん」こそ、多分一番深くハマってしまったドラマであることを、ここで素直に認めて、さーて、ブルーレイ・ボックスの続きでも観ようかな。

あまちゃんとパシリムの夏

少なくとも、おれにとってはそうだった。「あまちゃん」が、いよいよ来週で終わり、そうして今年の夏が終わるんである。

まずは「パシフィック・リム」について。

もうツイッターでは自分も散々に呟いたし語りつくされてはいるんだが。ただ、どうしても引っ掛かるところがあって。例えば町山さんほどの人でもオタクにフックが強かったからヒットした的なことを言っていて、それは違うと思うのだよ。あれは、オタク心などない、もしくはとっくに失ったオヤジの、ない筈のオタク心を掘り起こして、引っ張り出して、かきむしってくれるから凄いんである。それがメイニアック(ベロニカ・リスペクト)なモノを一般化するということで。逆に言えば現オタクな人には、あの映画の本当の凄さは理解出来ないんじゃないかとすら思う。

日本のアニメや特撮リスペクトという観点ばかりから語られがちだが、例えば冒頭。KAIJUは橋を横から襲う。これはハリウッド映画の定番だよね。直ぐにイェーガーの出撃となる。剥げた塗装、初動は合掌ポーズ、そうして二人でガシーンガシーンと歩き出す。このあたりで、もう目がウルウルになってしまい、以降それがずっと続くと相成るわけだが、細部のオマージュ探しより、むしろそのセンスの研ぎ澄ませ方こそ重要であると思う。

あんまり言ってる人がいないので、ツイッターでは既に呟いたものの、ここにも記録しておくけど、むしろ「ストリート・オブ・ファイヤー」との類似点を強く感じた。あれがロックンロール・フェイブルであるなら、バシリムは、怪獣フェイブルなんだよね。定番を踏まえたセンスの研ぎ澄ませ方と、その一般化の見事さこそが重要で。冒頭の構造なんて、ホントそっくりだと思う。

さて、そうして話は「あまちゃん」へと向かう。どうもクドカンはピンと来ない(ことが多かった)。その理由を理解できた気がする。この人、本領がテレビドラマなんだね。自分は、この人のテレビドラマはほとんど観ておらず、監督作やホンを書いてる映画しか観てない。「あまちゃん」スタート時期に公開された「中学生丸山」も、細部が雑(なのは予算問題が大きいとは思うものの)、惜しさ満載だった。

クドカン、長ければ長いほどいいのではないか。本質的に大長編向きな気がするんだな。

近年の朝ドラの比較で語るなら(自分が震災以降からしか観てないので)、物語としては「あまちゃん」より「カーネーション」の方が見事だと思う。その物語性の高さ・上手さが抜けているのだ。

けれど「あまちゃん」はその登場人物たちに対する愛着の湧き具合がハンパないのよね。愛おしくなって、何度でも観たくなる度合いが凄くて。そういう意味で「カーネーション」を圧倒的に凌いでしまっている。

個々はマニアックであってもフックの強いネタで、それが様々なベクトルに大量に撒かれていて、例えば10個撒かれた餌に、2つか3つ食いつけばいいように出来ているわけだ。その為にこそある程度の長さが必要だという。そうして、登場人物は一般性を獲得し、愛おしさが増していくという構造になっている。

ロクに観てない人からすらも散々語られた(笑)、震災の描き方についても触れておく。これは正直なところイマイチであった。マンガ「さんてつ」と、さかなくんの実話に頼ったネタ(というか、事実のまんま)など、配慮というか遠慮が強過ぎ、物足りない。さすがに震災からは時間がなさ過ぎ、まだ客観的にネタ化が出来てない感じで、オリジナルなことは作り辛かったのだろう。

かと言って、ネットで散々笑われていた「原発を描いてない」とか、そういうことを言いたいのではない。

例えば太平洋戦争。映画・ドラマにとって、この戦争は既にネタでしかない。特に朝ドラ(その多くは未見だが)は延々とネタにしてきた。自分が観ているここ数年のモノでも、「おひさま」「カーネーション」「梅ちゃん先生」もネタとして使っている。そこで描かれる大戦は、反戦だなんだという政治的な主張などどうでもよくなっており(好戦的なのは避けるのは前提として)、要は不可抗力としての不幸の総体が戦争なんである。

その意味で、クドカンならば、震災をネタにして、もっと出来た筈だという。

が、まだ一週間ある。クドカンが仕掛けたオリジナルは、ユイちゃんのトンネル・ネタ。これも事実を元にしているわけだ。けれど、そこに登場人物を絡ませ、物語を紡いで物語としての出口を作っていく。事実を再生してやることではなく、物語としての出口を見せることこそが、物語作者の務めだと思う。

ユイちゃんは元気にはなったとは言え、実はまだトンネルを出ていないんだね。最終週の予告編を見る限り、期待は出来そうだ。トンネルの出口は用意されている気配がある。そうして、そこまで描いてこそ、あまちゃんの夏が、ようやく終わることを許されるんである。

私は馬鹿でマグレ狙いの豚です

月曜に結果が出ていたんだが、あまりに予想通り過ぎて、億劫になってしまい今日までズルズル。結果はこの通り。


やっぱり、初めて落ちてしまいました。過去の遷移はこんな感じ。

      1206   1209   1212   1304   1307
Listening : 265 -> 245 -> 290 -> 275 -> 240
Reading  : 225 -> 265 -> 250 -> 275 -> 300
Total   : 490 -> 510 -> 540 -> 550 -> 540

これを見ると余計ショック大きい。リスニング過去最低点じゃないか。延々、リスニングだけやってて、これかい。やっぱ、おれって馬鹿だと思うの。まるで勉強してないリーディングが圧倒的に過去最高点なのは、もうマグレでしかなく。

ただ、今回は「出来なかった」という自覚があり過ぎた為、もう心の整理が終わっていて。未来に向いているのだ。このまま終わってたまるか。

打倒、高島学(えっ目標それかいっ)。