電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ネカマに枝折れなし

佐村河内守や小保方がバキっと折れても、ネカマの勇気くんはタフ。ネカマに枝折れなし。詳細ぐぐれカス。

まあ犯した罪(?)の度合いも、叩かれ度も全然違う。そりゃそうだ。でも偉いよなあ。おれもあんなタフなハートを持ちたいと心底思う。あんなにタフなハートがあれば、受験や英語の勉強ももっと出来た筈だろと思わなくもないものの、恐らくそれは設問の立て方が間違っている。誰でも、苦にならないというか集中が続く領域・ジャンルがあって、一方どうしても出来ないモノがあって、例えば自分だとプログラムを組むという行為だったり、何だったり、長時間集中しても苦にならないモノがある一方(加齢による集中力の低下はある)、未だ英語の勉強はあまり楽しくなくて長時間出来ない。強引に義務として自分に課さないと続かない(から、細切れにして日に何回もやるとか工夫して続けるようにしているわけだが)。肉体労働なんて、もってのほか。苦痛でしかない。

けれど、アフィカスネカマをやることは苦にならない人生って、ちょっと哀しい。もっと他のことが楽しければよかったのに。

たまたま、プログラムを組むことが苦にならない自分を若い時期に発見したからこそ、ここまで食うことが出来た。幸運であったというべきだろう。尤も、それもそろそろ限界にきていて、さてこれからどうするかというところで、色々試行錯誤してるわけだが、若い頃には苦痛だったボーっとしてることが、まったく苦痛にならなくなってきたりして、そういう自分の変化を実感するのは楽しい。若い頃は、時間を無駄にしてはダメだと、ある種の強迫観念があったんだね。

最近は朝から晩までボーっとしてる。単に怠け者になっただけである。それでストレスが溜まらなくなった。だから、それでいいのだ。そうして朽ち果ていくだけの人生になってしまっても、それはそれでしょうがない。勿論、そうではないこれからも色々と構想はしている。どういう方向に変わるにせよ、変わっていくことは昔から苦手ではない。新しい自分を創ることは楽しい。

この項、珍しくオチなし。おお、早速変わってきたぞ。

アフィカスネカマの勇気くん

いや何だよそれという話なんだが、詳細は各自ぐぐれカス。

おれ的には、娑婆で元気にネットゲーマーやってるらしい狂人くん以来の、ハートウォーミング系炎上というか、こういう、その才能をもっとクリエイティブて生産的なところで使えよな子には、どうも弱いんである。ましてやブログにコメントをくれた某業界関係者が山に人を埋めていたなどという話と比べると、もう圧倒的にハートウォーミングで、ネカマ7年続ける心の闇が、おれのハートに火をつけるという感じだ。何も直接的な被害を被ってないしね。

この子はプログラムの勉強などにも熱心で(ポインターって何よという勉強し始めの頃に誰もが苦しむ問題にアドバイスしたこともある)、実際かなりITスキルあるところを見せていたし、何より文才というか煽り才が天才的なところがあり、狂人くんと違ってやってしまったことも犯罪で実刑というレベルではないので、今後もこのまま益々間違った人生を力強く歩んで欲しいと思うが、お父ちゃん(同世代やや年下みたいだ)金持ちそうであるので、まあ、おれなどがお節介やかなくとも大丈夫だろう。

恐らく自分も理力の暗黒面に落ちているからこそ、こういう子に惹かれてしまうというのが前提だが、もし、彼がここを読むようなことがあるなら、是非ともこう伝えたい。世界は安易な市民運動などでは何も変わらない、そのままいけ、キミのような人間だけが世界を変える資格を持っているのだ。

ほとばしるブログ愛

などとタイトルつけながら、新年早々、ツキイチ更新すら忘れるところだった。

今年の目標も最低ツキイチ更新。相変わらずツイッターはそれなりの量を呟いているので、こっちも書こうと思えば、書くことはなくはないんだが、どうもブログということになると、文章凝らないと気が済まないというか、凝らない文章なら書く意味がないというか、凝らないくらいなら書かない方がましというか、そういうことなので、あまり書く気にならない。

他人様とか世間様に報告すべき自分の近況なども特になく、世界に向けて憤るほどのことはさらになく、ぼちぼちでんなと静かにしばらくは生きていく予定であって、また日々の更新が内的に必然となる日もきっと来るとは思うものの、来ないならそれはそれで良い。

ブログというネットにおけるジャンル(?)は、微妙に意味も形式も変えながら、それなりに残っていくとは思うんだが、まあネットの世界、何がどうなるか予想なんか確実に出来るわけもないし、「はてな」なんて会社がどれだけ生き残るのかも微妙であり、まあなるようにしかならない。

と何を書くにしても、かなり投げやりに生きているようだが、そうでもないんだ、オジさん今年もそこそこがんばって生きている(ということにしておいて)。

メリークリスマス、そして良いお年を

そうこうしているうちに、今年も終わってしまうわけだが、今年も実に静かな一年を送ってしまった。最近、まるでもうすぐ死んでしまうかのように、昔のことをよく思い出す。あの頃の自分は五十を過ぎた自分が、家に閉じこもり、仕事もそこそこに、英語を勉強したり映画を研究したりテレビでスーパー主婦を見てそれはそうじゃねえよと一人ごちたりしているだなんて、まるで想像もつかなかった。

このまま、まるで波乱万丈の人生を送った兵が余生を終えるかのように静かに朽ち果てていくつもりなのかと言えば、そんな気持ちはさらさらなく、そもそも波乱万丈の人生なんて未だ送ってなく、それでも、再び胸を熱く焦がすような思いを抱いて、華々しく歴史の表舞台に躍り出るつもり(って何だそりゃ)はあるのだが、つもりはあっても、そのつもりを妨げる様々な困難も眼前に広がっていて、その辺り、何がどうなるのかは自分にも皆目見当がつかない。

少なくとも、もし明日クルマにポーンと跳ねられて死んでしまってもいいように、やり残したこと、やろうと思って出来ていないこと、出来るんじゃないかと思いながらも届いてないことを、こつこつとこつこつと片付けていこうと思っていることに変わりなく、何でそんなことを考えてしまうのかといえば、自分は幸か不幸か、食わせなくてはいけない家族を持つという、人として至極当たり前の責任を負うことをここまで怠ってしまった為、外部から圧倒的に迫られる義務感による生と成功へのモチベーションを持ち得なかったというのが、やはり大きいように思う。

結局この歳になっても、高校生の頃に考えていたことを未だに考えている。たった自分ひとりの為にだけ、もう少し生きてみようと思っている。そうして、やがて、僕が何かを呟くと世界はその瞬間凍りつく。

メリークリスマス、そして良いお年を。

停滞する英語学習

母さん、ぼくのあの英語学習どうなったんでしょうね。最近ちっとも進捗を書かないあの英語学習ですよ。

7月のTOEICの成績が悪くて、悔しくて、ががーっとモチベーション上がって、どどーっと学習量増えたんだが、わずか1ヶ月くらいで萎んでしまった。理由は明確。進歩を実感出来なくなったから。ヒアリング自体というか、いわゆる英語耳はある程度出来るところまで出来た気がして。にも係わらず、ちっとも意味の像が結ばないのは以前書いたとおり。いやいや幾分はよくなってはいる。さすがにね。けれど明らかに止まってしまった。

勿論こんな状態でいくらTOEICを受けても点数が上がることも望めず。そうすると、どよーんとして徐々に学習量は元に戻り、戻っただけでなく少なくなり、10月あたりから、英語学習を始めてから2年で、初めて2日続けて勉強しない日が出来、11月に入ると、遂に一週間無勉強期間も作ってしまい。

ああ、散々ペラペラになるとか書いていた癖に、英語学習、遂に止めてしまうのか、まさかの危機到来。

結果としては、11月の後半から徐々にペースを戻し、現時点では以前程度の学習量には戻している。

けれど、TOEICはしばらくお休みするつもり。少なくとも来年の夏くらいまでは。いやいや、もっと長くなるかも。大きな成長を実感出来るまで受けない。試験慣れという意味ならもう充分慣れたしね。とにかく、もっと英語を頭と身体に染みこまさないとダメだ。あと語彙学習。覚えられないからって、ここのところまったくやってなかったが、これもやり直す。つまり、学習方法自体の試行錯誤は勿論続ける。まあ、そんなにがんばらないけどね。コツコツと飽かず離れず英語に触り続ける感じで。

そうして、来年の今頃には、おれは男になる。多分なれると思う。なれるんじゃないかな。いや再来年かもしれない。

極私的SF映画ベスト10

恒例のベスト10企画、今年は「SF映画ベスト10」ということで久々に参加。
http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20131031 

ここ数年は、参加者増えまくっているようで、集計ご苦労さまです。前に参加したのは、ゼロ年代ベスト10。この頃はゼロ年代の洋画を全然観てなかったけど、ここ数年で随分と観たので、今見直すと選び直したいー。

どうも「SF」と言われると、色々考えちゃう。例えば、今は昔、いわゆる国内第一世代のSF作家が現役バリバリの頃は、SFとはファンタジーの上位概念だったが、今はむしろファンタジーの方が上位概念だよねとか(海外ではそのふたつは別概念! だとか)。なので、むしろ色々考えたくて。しかも、自分がガキの頃からのSFファンで、やがて少なくとも小説においてはそれを卒業してしまった(から若干の疚しさがあって少し語り難い)ので、つまり、SFについて考えることは、自分史を考えることとも近い。

まずは、順位を先に並べてしまおう。

1位)「タイムマシン/80万年後の世界へ」1960年 ジョージ・パル監督
2位)「地球最後の日」1951年 ルドルフ・マテ監督
3位)「パシフィック・リム」2013年 ギレルモ・デル・トロ監督
4位)「恋はデジャ・ブ」1993年 ハロルド・ライミス監督
5位)「スローターハウス5」1972年 ジョージ・ロイ・ヒル監督
6位)「バンデットQ」1981年 テリー・ギリアム監督
7位)「バック・トゥ・ザ・フューチャー」1985年 ロバート・ゼメキス監督
8位)「ガメラ2 レギオン襲来」1996年 金子修介監督
9位)「きみがぼくを見つけた日」2009年 ロベルト・シュヴェンケ監督
10位)「エンド・オブ・ザ・ワールド」2012年 ローリーン・スカファリア監督

さて詳細について。

1位)「タイムマシン/80万年後の世界へ」
2位)「地球最後の日」

不敬という当たり前の概念

もともと根っからの左巻きな為、このネタは結構気楽に書けるんである。

天皇にいきなり手紙が何か差出ししたら無礼だろ。当たり前のことだと思うんだが、どうも、そういうことを言うと、不敬とか戦前じゃないんだからという話になってしまい、言い出すと右翼にされてしまう風潮がある。

相手が天皇であるから問題が大きくなるのは当然だとは言えるが、寺社や皇族に対する無礼を単に不敬というのだ。それを不敬罪という刑法の罪にしたら、それこそ戦前だが、彼は国会議員なのである。ここで、自分はわざと陛下もつけず、天皇天皇呼ばわりするのと違うのだ。パンピー天皇に対して陛下もつけず、さらに言えば天ちゃん呼ばわりしたって、単なる不敬なだけで、何の罪にも問われない。しかし、国会議員が、恐らくこの国で最も礼儀が重要である場で、無礼を働くのは、言語道断を通り越して、その無知蒙昧ぶりを国民全員が悲しむべき事態。道義的責任が問われて当然なのだ。

政治哲学上は天皇制を否定せざるを得ない共産党であっても(今天皇制について公式にどういう扱いしているかは別として)、所属の議員が皇族系の典礼に出るとなれば、礼儀は守る筈で、システム自体を否定すべく行動に表したいなら、そういう典礼には出席しないというのが、唯一の回答だろう。出席したのなら、彼のように無知蒙昧で礼儀自体を知らない奴でない限り、礼儀は守る。当たり前のことなのだ。

アメリカの大統領だって、ヨーロッパの王族には礼はする。天皇にだって礼をする。いやむしろそれは大統領であるからこそ、頭を下げなくてはならないのだ。システム自体を否定することと、オフィシャルの場の礼儀とはまったく別物であることは理解できないのが、悲しいかな庶民。

モノを分かってそうな学者やら識者と言われる人間すら、分かってない奴が多いようで、まったくどうなっているんだ。本来この話は、天皇の政治利用とか、そういう抽象論など、二の次三の次の話である筈だ。

こうして、戦後の開かれた皇室政策は、無知な庶民どころか、ほとんどのメディアと国会議員にまで誤解され、誤ったベクトルの論点が拡散され続けていくのである。

あまちゃんのない毎日は自由な毎日

誰もボクのことを縛りはしないさって感じだぜ、ホント。

確か著名人の誰かが、少し前まではテレビを見ないことはカッコいいことだったが、今では当たり前になり過ぎて、特にカッコいいことではなくなってしまったというニュアンスのことを呟いていた。

これは確かにそうだよなあと思う。5、6年前までは「テレビは見ないからなあ」と言うことは、特に自分のような世代においては、間違いなく自慢だった筈だ。それは、テレビでやってることなんて下らないことばかり、そんなことに時間を使うのは馬鹿馬鹿しいぞというニュアンスを含んでいたわけだ。だったらと思う。それが当たり前になったのならば、別にもうテレビを見たっていいんじゃないか、下らないと思ってたけど、意外と面白いぜ。特に、あまちゃんとか。

しかしだ。そんなノリで連続ドラマをいくつも見始めてしまうと、やっぱり思い出すんである。これキリないよな、他に何もやれなくなってしまう。時間を食い過ぎる。そうだ、そうだった、アメリカもんの連続ドラマが、ドドーっと入ってきた時も同じことをやった記憶がある(「24」とかだね)。それなりに面白いものはいくらでもある。が、やがて気付くんだな。これはキリがないよと。

勿論、そんなにリキまず、もっと軽いスタンスでテレビと付き合えばいいとは思う。ただ、もう何年も主体的にではなく、時間潰し的に、だらだらとテレビを見続けてしまうことは止めようと思っていて(あくまで、おれはだよ。そういう時間の使い方だって、したい人はすればいいと思う)、実際止めていて、かと言って、何をしてるわけでもない、ぼーっとしてたり、マンガを読んでいたり、その程度のことなんだが、連続ドラマを意識的に観始めてしまうと、そういう時間すら尽く奪っていってしまう。

やっぱり映画くらいの時間が丁度いい。きっぱり2時間。主体的に使おうとすると、軽い決断が必要な長さ。余裕がある時は毎日だっていけるが、忙しい時は、いいとこ週一とかになってしまうレベル。

最近じゃ封切りから遅くとも一年後にはBSCS系でノーカットでやってくれる。ブルーレイやらのプレイヤーとテレビはとっくに一体化してるし、ネットともかなり一体化してきたし、録画機能だって主に検索・整理機能も含め充実の一途だ。益々便利になっている。流行りモノを取りあえずチェックみたいな見方も簡単に出来るし、監督やら役者やらに焦点をあてて、体系的に積み重ねて観て行くことだって可能だ。学びに近い。何より主体的だ。

ようやく、あまちゃんが終わってくれて、そういう生活に戻っていくことが出来た。やっばり、テレビなんて、だらだら見るもんじゃないんだ。

あくまで主体的に、積極的な係わり方で、学び的に、ブルーレイとかを観るんである。……あまちゃんのボックスその2とか。まだかなまだかな発売まだかな。

あまちゃんに関して極私的なマトメ

素晴らしい最終週だった。鈴鹿ひろ美のライブシーンは圧巻だったし(TVドラマでこんなに号泣したのは初めて)、はたの駅のアキ・ユイが身を乗り出すようにまだ開通していない東京に向かう線路を覗き込むところから(ここのタメが効いてて凄くいいんだ)、光に向かって走り出すラストラン、もう文句のつけようがなく。

内容について諸々テクニカルな分析をするのは楽しい。が、それ以上に自分に戸惑ってしまうのは、これほどTVドラマに日々の生活が左右されてしまうことが、五十年の人生史上初めてであったこと。ああ、東京に行っちゃうのか、なんかヤだなと思いながら始まった東京編が、あれれ、びっくり加速度つけて面白いじゃないかというあたりから、毎日「あまちゃん」を見ることを中心に、生活を組み立てるという日々になってしまっていて。

人生なんて、いつもさよならだらけなんだから、喪失感など当たり前であって、むしろああこれでやっと普通に生活に戻れるというさっぱり感こそあって、何より社会問題から目を逸らさせる為の権力の陰謀なんじゃないかとすら思うのだ。

何故このドラマが、それほど自分を引き付けたのか、色々と分析は出来るものの、まあその辺はどうでもいいや。

前回クドカン長ければ長いほどいいんじゃないかと思ったんだが、致命的にこの人、演出(映画でいえば監督)は、あまり向いてなんじゃないかというのが、現時点の私的結論。細かいこと書きたがるわけには演出は雑で。例えば「中学生丸山」でエンケンが最初に爆発するシーンがある。ここが明らかに数カット足りないんだよね。何でこれで最後が拍手喝采になってしまうのか、頭の中で補わないと足りない。恐らく、それはポカーンと眺める聴衆とか、そういう数カットであると思うのだけど。古田新太が「面白くないホンを面白くやるのは簡単だけど、面白いホンを面白くやるのは難しい」的なことを言っていて、つまりクドカン、ホンの面白さに演出力がついていってないのではないのかと。

ステラのメモリアルブックやオフィシャルやら何やらを読み漁る限り、やはりのこのドラマ、演出班を中心にスタッフの仕事が素晴らしいのよね。穴というか隙間のあるホン(結構そういうとこある)の、その隙間を埋めていく作業が素晴らしい。勿論、能年・橋本コンビの魅力に加えて、キャストが全員見事な仕事してるというのも大前提。

ドラマらしい総合芸術というか、恐らくNHKでしか有り得ない緻密で高度な集団作業の結果が、すべてがいい方向にピタっとハマった成果というか。

ツイッターで「おれは、あまちゃんにはハマってないので」というフレーズを色々変形しながら繰り返しネタにして、どう見たってハマってるとしか思えない細かい分析などを散々呟いてきたわけだが、自分の人生において、「あまちゃん」こそ、多分一番深くハマってしまったドラマであることを、ここで素直に認めて、さーて、ブルーレイ・ボックスの続きでも観ようかな。

あまちゃんとパシリムの夏

少なくとも、おれにとってはそうだった。「あまちゃん」が、いよいよ来週で終わり、そうして今年の夏が終わるんである。

まずは「パシフィック・リム」について。

もうツイッターでは自分も散々に呟いたし語りつくされてはいるんだが。ただ、どうしても引っ掛かるところがあって。例えば町山さんほどの人でもオタクにフックが強かったからヒットした的なことを言っていて、それは違うと思うのだよ。あれは、オタク心などない、もしくはとっくに失ったオヤジの、ない筈のオタク心を掘り起こして、引っ張り出して、かきむしってくれるから凄いんである。それがメイニアック(ベロニカ・リスペクト)なモノを一般化するということで。逆に言えば現オタクな人には、あの映画の本当の凄さは理解出来ないんじゃないかとすら思う。

日本のアニメや特撮リスペクトという観点ばかりから語られがちだが、例えば冒頭。KAIJUは橋を横から襲う。これはハリウッド映画の定番だよね。直ぐにイェーガーの出撃となる。剥げた塗装、初動は合掌ポーズ、そうして二人でガシーンガシーンと歩き出す。このあたりで、もう目がウルウルになってしまい、以降それがずっと続くと相成るわけだが、細部のオマージュ探しより、むしろそのセンスの研ぎ澄ませ方こそ重要であると思う。

あんまり言ってる人がいないので、ツイッターでは既に呟いたものの、ここにも記録しておくけど、むしろ「ストリート・オブ・ファイヤー」との類似点を強く感じた。あれがロックンロール・フェイブルであるなら、バシリムは、怪獣フェイブルなんだよね。定番を踏まえたセンスの研ぎ澄ませ方と、その一般化の見事さこそが重要で。冒頭の構造なんて、ホントそっくりだと思う。

さて、そうして話は「あまちゃん」へと向かう。どうもクドカンはピンと来ない(ことが多かった)。その理由を理解できた気がする。この人、本領がテレビドラマなんだね。自分は、この人のテレビドラマはほとんど観ておらず、監督作やホンを書いてる映画しか観てない。「あまちゃん」スタート時期に公開された「中学生丸山」も、細部が雑(なのは予算問題が大きいとは思うものの)、惜しさ満載だった。

クドカン、長ければ長いほどいいのではないか。本質的に大長編向きな気がするんだな。

近年の朝ドラの比較で語るなら(自分が震災以降からしか観てないので)、物語としては「あまちゃん」より「カーネーション」の方が見事だと思う。その物語性の高さ・上手さが抜けているのだ。

けれど「あまちゃん」はその登場人物たちに対する愛着の湧き具合がハンパないのよね。愛おしくなって、何度でも観たくなる度合いが凄くて。そういう意味で「カーネーション」を圧倒的に凌いでしまっている。

個々はマニアックであってもフックの強いネタで、それが様々なベクトルに大量に撒かれていて、例えば10個撒かれた餌に、2つか3つ食いつけばいいように出来ているわけだ。その為にこそある程度の長さが必要だという。そうして、登場人物は一般性を獲得し、愛おしさが増していくという構造になっている。

ロクに観てない人からすらも散々語られた(笑)、震災の描き方についても触れておく。これは正直なところイマイチであった。マンガ「さんてつ」と、さかなくんの実話に頼ったネタ(というか、事実のまんま)など、配慮というか遠慮が強過ぎ、物足りない。さすがに震災からは時間がなさ過ぎ、まだ客観的にネタ化が出来てない感じで、オリジナルなことは作り辛かったのだろう。

かと言って、ネットで散々笑われていた「原発を描いてない」とか、そういうことを言いたいのではない。

例えば太平洋戦争。映画・ドラマにとって、この戦争は既にネタでしかない。特に朝ドラ(その多くは未見だが)は延々とネタにしてきた。自分が観ているここ数年のモノでも、「おひさま」「カーネーション」「梅ちゃん先生」もネタとして使っている。そこで描かれる大戦は、反戦だなんだという政治的な主張などどうでもよくなっており(好戦的なのは避けるのは前提として)、要は不可抗力としての不幸の総体が戦争なんである。

その意味で、クドカンならば、震災をネタにして、もっと出来た筈だという。

が、まだ一週間ある。クドカンが仕掛けたオリジナルは、ユイちゃんのトンネル・ネタ。これも事実を元にしているわけだ。けれど、そこに登場人物を絡ませ、物語を紡いで物語としての出口を作っていく。事実を再生してやることではなく、物語としての出口を見せることこそが、物語作者の務めだと思う。

ユイちゃんは元気にはなったとは言え、実はまだトンネルを出ていないんだね。最終週の予告編を見る限り、期待は出来そうだ。トンネルの出口は用意されている気配がある。そうして、そこまで描いてこそ、あまちゃんの夏が、ようやく終わることを許されるんである。

私は馬鹿でマグレ狙いの豚です

月曜に結果が出ていたんだが、あまりに予想通り過ぎて、億劫になってしまい今日までズルズル。結果はこの通り。


やっぱり、初めて落ちてしまいました。過去の遷移はこんな感じ。

      1206   1209   1212   1304   1307
Listening : 265 -> 245 -> 290 -> 275 -> 240
Reading  : 225 -> 265 -> 250 -> 275 -> 300
Total   : 490 -> 510 -> 540 -> 550 -> 540

これを見ると余計ショック大きい。リスニング過去最低点じゃないか。延々、リスニングだけやってて、これかい。やっぱ、おれって馬鹿だと思うの。まるで勉強してないリーディングが圧倒的に過去最高点なのは、もうマグレでしかなく。

ただ、今回は「出来なかった」という自覚があり過ぎた為、もう心の整理が終わっていて。未来に向いているのだ。このまま終わってたまるか。

打倒、高島学(えっ目標それかいっ)。

も少しがんばれ左傾批評! −「風立ちぬ」周辺雑感−

宮崎駿の「風立ちぬ」は、その明らかに説明不足の模写や、時代背景に対して基本的な知識が要求されることなどから、世のオジさんにとっては、まさに語りがいがある作品だと思うんだが、それゆえ偉い人でも、結構おかしな事を言っていて、そこがまた面白い。

以下は自分のツイートをあえて再構成せず、時系列に。ネットで語られていることと、それに対する自分の反応がキモなので。

7月24日:新宿のバルト9で鑑賞。その直後にツイート。

風立ちぬ」。ファンタジーじゃねえか(笑)。あんな菩薩様みたいなお姉ちゃんに愛された記憶があれば、兵器製造への良心の呵責も、夢の挫折も何やかやあっても、おれなら笑って生きていけるもの。(続く #eiga
posted at 14:17:23


続き)セルフオマージュ多過ぎの序盤、尺を考えての事だとは思うが、切り過ぎて唐突になってる気がする。しかも人がゴミのようだった。避暑地の風景と合わせて堀辰雄的といえばそれまでだが。あと仕事と恋愛が分離し過ぎ。ただ、自分の中で育つ映画かもしれないとは思う。 #eiga
posted at 14:23:52


そうそう、庵野の声はドンピシャで悪くなかった。
posted at 14:32:09


帰宅後、あっちこっちのツイートを探して読んでみて。

風立ちぬ」の批評、あっちこっち読んでみてびっくり。葛藤ならモノ凄くあるではないか。その方向の批判は圧倒的に見当外れ。アズマ先生とかオタク命名者の人とか。 #eiga
posted at 15:56:48


例えば避暑に行く前の、背中と飛行機の残骸だけ見せる1秒くらいのカット。葛藤ないなら、避暑に行く意味わかんないじゃん。不思議ー。 #eiga
posted at 15:59:58


それに基本が技術者というより職人の話じゃん。政治的にも思想的にプレーン。そこをわざと強調してるんだから受け止めなきゃ意味がないと思うんだわー。紅の豚直系のファンタジー。紅の豚ほど面白くないけど。 #eiga
posted at 16:03:41


いいとこのぼんぼんの技術者がメゲて軽井沢いくから堀辰雄なんじゃないのか。 #eiga
posted at 16:06:41


あれさ、主人公が原発のエンジニアだったら、と考えると分かりやすいんじゃないかな。翼賛も罵倒もせず、意地になってプレーンというかフラットなところで踏ん張ったのは、さすがだと思ったけどな。 #eiga
posted at 16:20:51


紅の豚の直系と書いたけど、細かく言えば、今回の主人公は豚さんではなくフィオの直系でさ。飛行機を原発に置き換えると分かりやすいってのは、そのままアニメに置き換えてもよくて。つまり自伝的なんだね。宮崎駿のこういう作品至上主義は好き。人より作品の方が重要なんだな。
posted at 16:41:01


つまり「風立ちぬ」は作り手の為の作品で、批評家の為の作品じゃないんだね。……と、あんまり面白くなかったし大して泣けなかったんだか、猛烈に擁護したくなってしまった。 #eiga
posted at 16:45:25


村上春樹がコミットメントとか言い出してる今に、七十過ぎてディタッチメントしてみせるのってカッコいいと思うんだよな。思想とか政治とか、こまけーことはどーでもいいんだ的に。……まっパンピーがそれやっても駄目なんだけどね。 #eiga
posted at 16:54:09


というわけで、ポニョは問題作だけど失敗作、風立ちはエレガントだけどあんまり面白くない、というあたりが当日のおれ評価。
posted at 17:11:08


7月25日:高橋源一郎が、どっかの新聞で、ゲンロンのチェルノブイリ本と並ぶべて褒めてるらしいのを見かけて。

源ちゃんが「風立ちぬ」に対して、自分と同じ見方をしてる(ようだ)。さすが。って影響受けてるのはこっちだが。
posted at 12:27:15


あと昨日は触れなかったけど、イタリア的なおおらかさとドイツ的な合理性の対比、結果生まれてくる日本的な美というところは、結構面白く分析できるような気がするわ。クレソン親父をだしたのは、ドイツを少しディスり過ぎてるからバランス取った感じか。
posted at 12:29:38


豚さんは国家や軍に背を向けてかっ飛んでみせるからカッコいいけど豚なんだね。堀越二郎は会社や軍の垢にまみれて、それでも技術者であることをまっとうしようとするから、全然カッコよくはみえないけど、だからこそ人間なんだね。
posted at 12:51:55


てか、やっぱこんだけ考えさせてくれるから、いい映画なんじゃなね? >風立ちぬ
posted at 12:53:26


7月26日:小飼弾がおかしなこと書いてるのを見かけて。

またトンチンカンなことを(苦笑)。本歌取りは元ネタ陵辱した方が傑作が生まれやすいのは常識に近い。そこに正当性も根拠も必要ない。/404 Blog Not Found:原作陵辱 - 品評 - 風立ちぬ http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51880843.html
posted at 10:03:44


ダンコーガイ、昔筒井ファンであるようなこと書いてた記憶があんだが、まるで筒井に難癖つけた百目鬼恭三郎みたい。
posted at 10:11:51


そもそも、堀辰雄がいわゆる左傾批評から延々馬鹿にされてきたプチブル文学(?)であるということが分かってないから、ああいうトンチンカンなことを書いちゃうんだよな。
posted at 10:25:01


7月28日:これは特定のどこというわけではないが、明らかにやっと「堀越二郎=駿」に焦点が合い始めたんだが、しかし……というあたり。

風立ちぬ」評、少し流れが変わってきて、堀越二郎=駿に焦点が合い始めたのはいいんだが、「芸の為なら女房も泣かす」的な解釈もチト違うと思うぞ。時代を考えないと。「麻雀放浪記」のドサ健の名科白「死んだお袋とこいつ(奥さん)にはいくら迷惑かけてもいい」とかさ。(続く #eiga
posted at 23:43:29


続き)何と言っても、彼女のお父さんの科白と、片手計算尺世界一の科白を無視しちゃダメだろ。世界一になるには毎晩あれってことだぜ。そりゃ作品至上主義ではあるんだけど、充分優しく描かれてるじゃないか。少なくとも、ドサ健や春団治よりはるかに。 #eiga
posted at 23:44:10


8月2日:バルス祭りの途中で。

あれさ「風立ちぬ」が「絵がきれいだった」って感想はよく見るんだけど、ナウシカラピュタだけ、抜けてきれいだと思うんだよなあ。画質とか描きこみの問題じゃなくてさ。 #eiga
posted at 21:23:46


8月3日:竹熊先生があれれ? ということをツイートしてたので。

タケクマ先生に教えてさしあげたくなるが、どうせ誰かがリプしてるだろうから思いとどまる。堀辰雄は士族の出。だからこそのプチブル文学で。二郎の方がどうだったかは知らないが、映画内でも実家に女中がいた。要は最初から金持ちの話なんだよ。
posted at 22:56:26


あれは庶民の話ではなく金持ちの話であるということに気付かなかったら、半分くらい分かってないことになるような気がするんだが。金持ちで才能あって美人ちゃんに惚れられる、とことん恵まれた奴の話なんだよね。
posted at 22:58:20


風立ちぬ」においては、堀辰雄がどういう小説を書いていたのかよりむしろ、堀辰雄がどう評価されてきたのかの方が重要だと思うんだよね。ところがサブカル系(?)の人たちはそこにまったく気付けていないというか。
posted at 23:21:56


というわけで、「風立ちぬ」はむしろ旧来の左傾批評的(?)な方法論の方が扱いやすい筈なんだが(何ていったって堀辰雄なわけだし)、どうもそっち系の人は、あんまりネットですぐに意見という感じでもなく、ネットと親和性の高いサブカル系の人たちは、根本的なところが分かってない感じがして、こうして自分のツイートをマトメておく次第。


追記:実は堀辰雄、ロクロク読んでないんだが、どう評価されてきたかには詳しいんである。理由はシンプルで高校のパイセンだから。あれだ、堀辰雄は、柿沢こうじとかミラーマン植草とか(ともにパイセン)と同じなんだ。結構気になっちゃうの。

5回目のTOEIC

さっぱり出来ませんでした。今までわずからながらも4回とも点上げてきたけど、今回は多分下がる気が。あーあ情けない。以上。


で終わるのもさすがに寂しいので、もう少し。

前回出来たつもりが結果はまったくダメで、かなりモチベーションが後退した。その後、イマイチ気合を入れ直せず、勉強量少ないまま、ずるずる試験当日を迎えてしまった感じ。

ところが不思議なもんで、今回があまりに出来なかったら、試験翌日からモチベーションを取り戻しつつある。まがりなりともこれだけ時間かけて1年半以上英語に取り組んでて、このまま終わっていいのか。それじゃ、まったく時間の無駄じゃないかという気持ちが強くなり。

勉強方法は間違っているとは思わない。あくまでヒアリング中心で。見直しも少しずつは掛けている。が、もうアタマ固くて今の勉強時間じゃ、伸びる速度が遅いというのが仮の結論。なので、何とかもう少し時間を増やす努力をする。当社比150%くらいに。そのくらいなら何とか可能な筈で。

まあ、言うは易しというのは分かってる。だからこそ、まずは書いてみた。書いてみてもダメな場合もよくあることだが。書かないよりはいくらかマシであって。マシであって欲しい。お願いします、英語の神様。いねえよ、そんな奴。

日常生活の発見

相変わらず、静かで穏やかな生活を日々送っているわけだが、この歳になって発見することが多くてまったく飽きない。

例えば、このところ35年ぶりくらいに朝食に食パンをトーストして食べるという習慣が出来た。35年前はまだ子供であり、放っておいても食卓に出てくるのがトーストであっただけで、つまりは自分が望んで食パンをトーストして食べるようになったのは初めてということになる。

トーストした食パンに、たっぷりバターをつけて食べるのは大好きなのだ。が、何故そこそこ長くなった人生において選択して来なかったかと言えば、いくつかの明確な理由があり。

まずは、トースターを揃えるのがどうもという感覚。もうこの歳になってモノはあまり増やしたくないから新規に買うのもなと。電子レンジがオーブントースターも兼ねてる奴な為、それで焼けなくはないんだが、時間が掛かるのと、コゲがきれいに入らないんだよね。

加えて、食パンの保存問題。最近では半斤でも売っているのは知っていたが、それにしたって6枚切りなら半斤で3枚、ラストの3枚目は賞味期限ギリギリになったりする。賞味期限ギリギリ、あるいは過ぎた食材は結構苦手。なるべく早く食べてしまいたいタイプなのだ。

一番大きいのがバター。いっぱい塗りたいのだ。が、そうすると高カロリー。しかも冷蔵庫で保存してるバターって固くって塗り難い。塗り易い奴はやたら高かったりする。過去に極々まれにトーストを食すこともあって、そういう時は、使う分だけ軽く湯煎して柔らかくしてから使うなんてことも試したことはあるんだが結構面倒。低カロリーで柔らかいのが当たり前のマーガリンは小学校の給食の頃から何故か苦手。好き嫌いがほぼない自分にしては珍しく、食べられないほどではないものの、マーガリンを塗るくらいなら、トーストなんて食へたくない。

こうして、それぞれは大した問題でないし対応策はあるんだろうが、それ以上深く考えるのも面倒くさく、結局、トーストした食パンが一人暮らしの自分の食卓に日常的に上ることはなかった。

では、何故これら幾多の問題を解決して、朝食は食パンをトーストとまでなったか。結論から言えば、3つ目のバター問題を解決したというか、オリーブオイルに小皿にとって、塩をパラリ(この塩がポイント)、これに千切ったパンをつけて食べたらバター並みかそれ以上に美味しくて、これは日常的に食べたいという気になったからだ。そうして他の問題をも積極的に解決しようという気になった。

トースター問題は、フライパンで、それ用クッキングホイルでくるんで焼く。掛かる時間はむしろ短いくらいで、焼き目も慣れてくれば自在。ふたつ目の保存問題は、冷凍することで解決。しかも、たまに違うものを食べたくなっても賞味期間を気にしないで済む。モバイル機器の風呂持込み用にジップロック(のビニール袋タイプの奴)は常備されている家なので、試すのも簡単だった。解凍などせずそのまま焼く。ちゃんと中身はフカフカになって、味の劣化も感じない。これを塩パラリのオリーブオイルで食す。いやあ、美味い、美味いぞ。

本気で考えさえすれば、すぐにも解決する問題だったのだ。が、日々の生活に追われ、そこまでの問題でもないような気がするから、ハナから何も考えない。ところが、ちゃんと考えて試行錯誤してみると、意外と簡単にブレイクスルーがある。そうして得た発見は、日常生活をより快適に豊かにしてくれる。ああ、生きるって楽しい。

なんてこと書いてていいのかしらね。というか、こんなことに頭使ってる暇あるなら、もっとやることあるだろという疑問は多少感じなくもないものの。

私は英語がきっぱり苦手です

はあ。

今回は発表を指折り数えて楽しみにしていたくらいなのに、蓋を開けてみれば、やっぱこうだったわ。


以下は今回あわせて過去4回の得点推移。

      1206   1209   1212   1304
Listening : 265 -> 245 -> 290 -> 275
Reading  : 225 -> 265 -> 250 -> 275
Total   : 490 -> 510 -> 540 -> 550

終わって自信満々だったリスニングに至っては下がってるし。

英語を最低でも1時間やることが完全に日々の習慣になっていてこれだから。ひょっとして、勉強方法根本的に間違ってるんじゃね? てか方法は悪くなくとも年寄りで頭固くなってていくらやっても無駄なんじゃね? てかてか、おれシンプルに馬鹿なんじゃね?

……はあ(連発)。

自意識的には随分と成長しているつもりなんだがなあ。益々長い道のりになりそうな気配。それでも、次は7月を受ける。今年一発目は4月だったが、やっぱ3・7・11と3回受けるのがパランスいいかなと考え中。

と、もう来年のことを考えているのである。今年は捨てた(ええーっ)。鬼よ笑いたければ笑え。ひとつ人世の生血を啜り、ふたつ不埒な悪行三昧、みっつ醜い浮世の鬼がおれだ。何やら意識が混濁しているようであります。